香港映画の存在も知らずオーディションを受けたら合格、香港2大スターの相手役に即抜擢
──空手、柔道、合気道の有段者である倉田さんは、日本大学を卒業して俳優の道に進み、25歳になる1971年に、香港映画と運命的に出会います。あの当時、どういう志を抱いていたのでしょう。
倉田保昭(以下、倉田) 志なんてまるでなかったです。大学を出て職に就くことなく、たまに脇役の仕事が来るだけで、日大の後輩が訪ねてきてもご飯も奢ってあげられない。悶々としてアルバイトをしながら、代官山の家賃7千円のアパートで寝起きする毎日でした。
──地価の高い代官山も、当時は家賃1万円を切っていた物件があったんですね。
倉田 ピンク電話があって共同電話と共同トイレという、汚い木造アパートです。そんなとき、「香港映画のオーディションを受けてみたいか?」と声をかけられたんです。
──その瞬間、どう思いました?
倉田 「香港に映画なんてあるの?」って。ブルース・リー(李小龍)の『燃えよドラゴン』(1973年公開)がヒットする前だし、多くの日本人が香港映画の存在を知らない時代です。香港で連想するのは麻薬、売春、人身売買くらい(笑)。
──当時はダークな部分がクローズアップされる魔界都市のイメージでしたね。
倉田 でも日本で俳優として成り立っている訳でもないし、「オーディション受けてみるか」と友達から背広を借りて帝国ホテルに行ったんです。
──1970年に東京で行われたショウ・ブラザーズ(※香港の映画会社)のオーディション会場ですね。
倉田 オーディションといっても、社長のランラン・ショウ(邵逸夫)がロビーに座っていて、僕の姿を見ていたので、こっちはプロフィールを渡してっていう、それだけ。演技をして見せろとも言われなかったんです。
──香港のクンフー(※中国武術)映画界が、敵方となる強い悪役を日本人の俳優に求めていたということでしょうか?
倉田 そうです。でも僕はクンフー映画でアクションを売りにした香港映画のスターがいるなんてことも知りませんでした。ティ・ロン(狄龍)、デビッド・チャン(姜大衛)という2大スターがいて、いきなり僕は彼らの相手役という大役に選ばれたんです。
──それが、デビュー作『惡客』(1971年=邦題『続・拳撃 悪客』でDVD化)ですね。異国での撮影は大変でしたか?
倉田 一番は言葉です。広東語(※香港の公用語)なんて聞き取れる訳がなく、相手役のセリフがいつ終わるのかも分からない。だからカメラに映っていないところで通訳の人に合図を出してもらって、僕がセリフを喋るというやり方でした。
──当時の香港映画は同時録音ではなく、アフレコ専門の人がいて、すべての出演者の吹き替えをするんですよね。
倉田 そうです。スター俳優にはそれぞれ担当の声優がいるんです。
──映画が娯楽の王様だったから、量産すべく早撮りを強いられ、この方法になったようですね。
倉田 広東語を話せない僕は、それらしい表情で適当な日本語を話せばいいんだと言われて。最初は面食らったけど、慣れてくれば楽なんです。セリフを暗記しなくていいんだから(笑)。
──倉田さんはそこから悪役のラスボスとなって、様々なクンフー映画にたて続けに出演されます。渡航した時点では、どの程度まで先のことを思い描いていたんですか?
倉田 何にもない。だって、「2週間で終わるから出演するか?」と言われて香港に行っただけなんですよ。
──当初は『惡客』だけの話だった?
倉田 ところがどういう事情なのか、2週間のうちで撮影したのは一日だけだったんですが、最初に撮ったラッシュ(※未編集の映像)を見て、ショウ・ブラザーズが僕を気に入ってくれたんです。日本に帰ってもまたバイト暮らしだろうし、まだ20代半ばでしたし、「駄目になったら帰国すりゃいいだけだ。よぉし、来るオファーは全部受けてやろう」と思ったんです。
──そして、このたび日本で50年ぶりに劇場公開される『帰って来たドラゴン』(1974年)ですが、倉田さんの香港映画26作目で、監督が当時のヒットメーカーであり、クンフー映画界の大プロデューサーでもあるウー・シーユエン(呉思遠)。
倉田 ウー・シーユエンとはこれが3作目なんです。とにかく厳しい監督でした。アクションシーンを妥協することなく何度も撮り直す。だから香港の観客を熱狂させていた訳ですが、役者は大変ですよ。
──主演はブルース・リャン(梁小龍)。倉田さんより3歳年下ですが、クンフー映画界のキャリアは長く、若手スターとして注目を集め始めていた時期ですね。
倉田 ブルース・リャンもこの頃はまだ駆け出しで、もともとスタントマンから武術指導(※アクション監督)になった人なので、この映画でも武術指導を兼任しています。