10代、家計を支えるために女優へなろうと決意したが仕事の減少で追い詰められて

――現在は専業作家でいらっしゃって、2025年2月刊行の『マイ・ディア・キッチン』(文藝春秋)は、人気YouTubeチャンネル「ほんタメ」による「第9回ほんタメ文学賞」の候補作になるなど、話題に。すばらしいご活躍ですね。

大木亜希子(以下、大木) ありがとうございます。今回の作品では島本理生さんの『一撃のお姫さま』(文藝春秋)や、私と同じく元アイドルの松井玲奈さんによる『カット・イン/カット・アウト』(集英社/同文学賞にてあかりん大賞を獲得)とならび「ほんタメ文学賞」の候補作に挙げてくださってありがたかったです。

――次回作の構想はあるのでしょうか?

大木亜希子 あります。今は『御伽の国のモアとトト』という新作を執筆中です。この物語は、子役として芸能界で揉まれた双子の姉弟が、セカンドキャリアを生き抜くお話です。初めて男性を主人公に据えました。文芸誌『GOAT』(小学館/2024年11月創刊)にも、本作の第一章を掲載していただきました。

――芸能界から一般企業の会社員となり、現在の専業作家へとたどりついた大木さんの来歴と重なる印象もあります。

大木 ある程度、自分の経験から作品が生まれている点はありますね。例えば、私自身、過去にアイドルを経験したとはいえ、同じグループで活動していた芹那さんや野呂佳代さんのように目立つポジションではありませんでしたし、芸能界を離れてからようやく自分の居場所を見つけられたという実感がありました。そして、芸能界から一般社会へとキャリアを広げていく中でも、やはり色々な苦しさや厳しさがありました。そういう点が、本作にも反映されていると思います。

ちなみにいま発売中の最新刊『マイ・ディア・キッチン』も、主人公・白石葉ちゃんのキャラクター設定において、芸能界の経験が生かされていると思います。彼女の設定は、私が女優として活動していた頃に出会った女優仲間から聞いた話を参考にしているんです。というのも、その友人は芸能界を引退したあと、社会的にとても成功している男性と結婚したのですが、その人が実はかなりモラハラ気質がある方だったそうです。彼の束縛が激しく、友人はずっと大変な思いをしていたのですが、やっと離婚できることになって。結婚当初から、ずっとハードなエピソードを私に語ってくれました。

そういったエピソードが葉ちゃん自身の背景に反映されていると思います。例えば彼女も、経済的に豊かな男性と結婚して、周囲からも「良い旦那さんですね」と言われ一見すると華やかな生活を送っているのですが、実は夫からモラハラを受けているという設定で。実際はどこに行くにしてもGPSを持たされて、いま自分がいる場所を常に特定され、見た目も体重もコントロールされている設定なんです。

――なるほど。実際に聞いた経験を元にしているのですね。そうした女優経験のある大木さんのキャリアも、改めて、幼少期から振り返っていただきたいです。

大木 生い立ちからたどると、私は千葉の片田舎にある歯科医院の娘で、4姉妹の末っ子でした。歯科医だった父のおかげで小学校低学年頃まで生活に困ることはなかったのですが、小学5年生で父が病に倒れまして専業主婦だった母が1人で私たち4姉妹を育てなければならなくったんです。早くから私が芸能界へ入ったのは、そんな母を支えたいという思いがきっかけでした。

――いわば芸能界に入ったのは、「食いぶちを稼ぐため」だったわけですね。

大木 端的にいえば、そうなります。ただ、私たち娘だけではなく、母も私達のために一生懸命働いてくれました。たとえば彼女は占いが得意だったので仕事の一つとして、占い師を開業して。もともと四柱推命やタロットカードが趣味だったこともあって、仕事にしようと考えたみたいです。実際に開業すると、それがまた結構繁盛して。値段も良心的な設定でしたし、よくない恋愛で迷える女の子には時に厳しく、でも、優しく相談に乗ってあげている姿を近くで見ていました。

――中学から高校にかけては、姉の奈津子さんと共に女優として活躍。当初は、姉妹で家計を支えるために飛び込んだ世界だと思いますが、経験を重ねるにつれて、姉妹間での仕事の有無による嫉妬などは生まれなかったのでしょうか?

大木 嫉妬や競争心はなかったです。ただ、私たちのデビュー作はドキュメンタリー番組『唐沢寿明 Presents 記憶の力 II』(日本テレビ系)という番組だったのですが、共に番組でナビゲーターを務めていらっしゃった唐沢さんに「君たちは2艘の船のように、どちらかが沈みかけても引っ張り合って生きていきなさい」とおっしゃっていただいて、それが凄く印象に残っています。

そこからは、その言葉を胸に必死に新人女優として活動していました。あらゆるドラマや映画のオーディションを受けたり演技レッスンやボイストレーニングに通ったり。毎日、大変だけど充実していました。

ただ、時には地元の同級生から陰口を言われたこともあります。例えば、連続ドラマデビュー作『野ブタ。をプロデュース』(日本テレビ系)で、男性の俳優さんと腕を組むシーンがあったのですが、当時通っていた高校で、その俳優さんのファンだった同級生から無視されるようになって、そこから一切、口を聞いてくれなくなって。その後も芸能活動によって学校を休みがちになったこともあり、高校2年生からは当時「芸能コース」があった東京・目黒の日出高校に転校しました。

――芸能人としての洗礼、といいますか。それでも当時は「女優として生きる」という、強い覚悟があったんでしょうか?

大木 もちろん覚悟は持っているつもりでしたが、それよりも「芸能界で稼ぎたい」という気持ちのほうが強かったです。だから、女優として明確なビジョンがハッキリしていなくて、せっかく雑誌などでインタビューをしていただく機会があっても「どんな女優さんになりたいですか?」と聞かれた時、ふんわりとした回答しかできなかったんです。

結局、高校を卒業したあたりからは一生懸命オーディションを受けても、さらに落選が続くようになり、運よく出演したドラマの撮影現場でも結果が残せない日々が続ました。

――「食いぶちを稼ぐため」として飛び込みながらも、仕事が減っていくのは辛いですね。

大木 そうですね。その頃は、女優の仕事がお休みの日にしょっちゅうアルバイトをしていた記憶があります。朝いちの電車に乗って群馬の山奥へ行き、現地でお菓子メーカーのキャラクターの着ぐるみを着て子どもたちにお菓子を配るバイトをしたり、ビジネスホテルのベッドメイクのお仕事をしたり、ティッシュ配りをしたり、飲食店のお皿洗いもやりました。

今考えるとバイト代をもらえるだけでありがたい話ですが、当時は「自分は一体どうなっていくんだろう」と思い、かなり精神的に追い込まれていました。