観る人全員が笑って感動するエンターテイメントな劇団を作りたくてSETを旗揚げ

――SETを旗揚げしたきっかけを教えてください。

三宅 まず僕が前にいた劇団に、不満が多かったっていうのがありますよね。僕がやりたいこととは違う方向性だったので、自分のやりたいものをやりたかったんです。あと当時はアングラ演劇が全盛で、笑いが少なくて割と難しい、分かる奴が分かればいい、それを分かる奴がすごいんだ、みたいな雰囲気があったんです、それをぶち壊したかったのと、観る人全員が笑って感動してというエンターテイメントな劇団を作りたかったんです。

――それまで笑いを大切にしたエンターテイメント志向の劇団は東京になかったんですか?

三宅 東京ボードビルショーと東京乾電池が笑いの劇団として人気がありましたが、僕がやりたかった歌やダンス、アクションはやっていませんでした。

――どうして三宅さんは、エンターテイメント志向だったのでしょうか。

三宅 神田神保町で生まれ育った家庭環境の影響だと思います。中学・高校と落語と音楽が大好きで、大学では落研をやりつつ、ジャズコンボバンドやコミックバンドとかをやっていました。そういう過去の経験から自然と笑いと音楽がやりたいという風になったんでしょうね。

――SET旗揚げメンバーはどのように集まったのでしょうか。

三宅 その前に参加していた「大江戸新喜劇」という劇団は、「浅草の灯を消すな」というスローガンを掲げていたんですけど、僕のやりたい方向性とは違っていたんです。なので、新しい形が作りたくて、そこの劇団から15人を引き連れて、自分で新しい劇団を作っちゃったんです。それがSETです。

――もともとリーダー気質みたいなのはあったのでしょうか。

三宅 小学生時代から、ずいぶん学級委員とかをやってましたから、そういう人間だったんでしょうね。

――アクションへのこだわりは、どういうところから端を発しているんですか。

三宅 西部劇の好きな叔父がいまして、その影響で小さい頃から西部劇に興味があったんです。中でも殴り合いのシーンが好きで、その真似ばかりしていました。あと、劇団創立当時は劇団だけでは食えないので、僕も含めたメンバーが「ウルトラマン」などのキャラクターショーで、いろんなところを回ってアクションをやっていました。だから、劇団の一つの芸としてアクションがあったんです。それに音楽とダンスとアクションと笑いを融合させて、ミュージカル・アクション・コメディーを旗印にしたわけです。

――旗揚げした当時、集客はいかがでしたか。

三宅 最初は口コミだけのお客さんですから少なかったです。しかも旗揚げ公演の頃は、まだ春闘のストが行われていまして、国鉄がよく止まっていたんです。その影響もあって池袋の劇場だったんですけど、お客さんが3、4人しか来なくて。役者のほうが人数が多いので、お客さんのほうが照れていたというスタートだったんです。そこから口コミで徐々に知名度が広がる中、第2回公演のタイミングで演劇フェスティバルに参加したんです。共通チケット1枚で全部の劇団が観られるんですけど、それを機にどっとお客さんが増えましたね。他の劇団のファンがSETを観に来て、「面白いから次も観に行くよ」ってことで、動員が900人ぐらいになりました。

――飛躍的に増えましたね。

三宅 900人と言っても、公演のトータルですよ。このままじゃダメだ、もっとマスコミに出て劇団を売らなきゃと思って、ラジオに出演し始めたら、すぐに3000人になりました。

――メディア戦略的なことは、みんなで話し合って決めたんですか?

三宅 僕の中だけで考えてやったことです。もしも僕より先に売れる劇団員がいたら、きっとSETは解散していたでしょうし(笑)。