人生は一回限りだし、野球以外の道に進んでみたいと思った

――高校時代、兵頭さんはどんなタイプでしたか。

兵頭 いつも騒いでいました(笑)。でも、あんまり騒ぎ過ぎると、野球部の先輩や顧問から、「生活態度をちゃんとしろ!」って怒られるんです。

――かなり厳しい部活だったんですか?

兵頭 野球の強豪校だったので、学校での生活態度もかなり厳しかったです。携帯電話の所持も禁止で、中学まで携帯を使っていた人は、まず解約届けを出すところから始まるんです。学校帰りの寄り道も禁止だし、朝から晩まで野球漬け。風紀検査に引っかかったら、草むしり3ヶ月みたいな。それぐらい真剣に野球に打ち込んでいたので、ふざけ過ぎたら怒られるんですけど、それでも楽しくやっていて、騒げるときは騒いでいました。

――自由に遊びたい気持ちはなかったんですか。

兵頭 野球が好きだったし、当時は本気でプロ野球選手になりたくて、甲子園を目指していたので、自由を犠牲にしてでも野球をやりたい気持ちが強かったです。

――野球はどれぐらいの期間やっていたんですか。

兵頭 小学生で始めて、高校3年生まで続けていました。

――ポジションは?

兵頭 小学校の頃はポジションが曖昧だったんですが、肩が強かったので、ピッチャーやキャッチャー、サードなど投げることの多いポジションになることが多くて。中学からはずっとピッチャーでした。

――球種はどれぐらいあったんですか?

兵頭 中学時代は真っ直ぐとカーブぐらいでしたけど、高校に入ってからは、フォークやシュート気味のツーシーム、握りを強くして空振りを取りに行く縦のカーブなどを投げていました。

――かなり球種があったんですね。どうやって覚えるものなんですか。

兵頭 感覚ですね。コントロールや変化のキレは練習だと思うんですけど、毎日やっているからといって変化球を投げられる訳じゃないんです。試しに投げてみたら「あ、これだ」みたいな。

――プロのピッチャーでも、練習したからといって実戦で変化球を投げられるわけじゃないですからね。

兵頭 それで言うと、僕は横のスライダーが投げられなかったです。細かい話ですが、縦回転の変化球を中心に投げていると、横は投げにくくなるんです。

――野球に打ち込む日々の中で、いつ頃から芸能の世界に興味を持ち始めたんですか。

兵頭 小学校の卒業アルバムに、「将来はテレビに出る」みたいなことを書いていたんですが、とりあえずテレビに出たかっただけで、漠然と野球選手としてテレビに出ることを考えていたんだと思います。高校卒業後の進路を考える時期に、今後も野球を続けるかどうか迷っていて。そしたら母に「竹下通りとかを歩いていたらスカウトされるんじゃない?」って何気なく言われて、「めっちゃ楽しそう!それはありだな」と思ったんです(笑)。その翌日には、進路相談で「東京に行きます」と伝えて、野球推薦での進学のお話は断りました。

――進学の選択もあったんですね。

兵頭 大学で4年間野球をやって、もしかしたら社会人野球も経験して、たとえプロになれたとしても、一生野球をやれる訳ではない。だったら人生一回限りだし、野球以外の道に進んでみたいと思ったんですよね。僕は4月15日生まれなんですが、19歳になったタイミングで上京して。出発当日、空港まで友達が見送りをしてくれて、「有名になったら帰って来る」と宣言しました。

――それが成人式のお話に繋がるんですね。もともとはお母さんからの提案とはいえ、家族も上京に賛成だったんですか。

兵頭 はい。今考えたら、すごいことですよね。僕が親の立場だったら、好きなことはさせたいので反対はしないと思いますが、心配はすると思います。オーディションに合格して上京したとかなら分かりますけど、何のあてもなかったですからね。

――上京する時点では、明確に俳優を目指していたわけではなかったんですか。

兵頭 そうですね。よく業界のことも分かっていなかったんです。俳優さんもモデルとして雑誌の表紙を飾っているし、俳優としてドラマに出演しているアーティストさんもいるし、その境界線も分からないじゃないですか。上京して1年間、バイトをしながら、いろいろな勉強や経験をしていく中で、もともと家族で映画を見るのが好きだったのもあって、俳優になりたいなと思ったんです。それで「NEW CINEMA PROJECT」というオーディションを受けて、それをきっかけに20歳でアミューズに入りました。