演技の基礎は磨いていないけど、アクションに関しては自信があった

──撮影場所は、香港のお隣のマカオですね。

倉田 マカオに船で着いてさらに船で渡る、タムチャイ(氹仔)という小さな島(タイパ島)です。今は栄えていて、橋が架かって車でも行けるんですが、あの当時はホテルもなく、小屋の板の間でみんな寝る合宿のような毎日でした。ブルース・リャンら若いキャストたちが、「ウー・シーユエンのバカヤロー!」って叫ぶんですよ。もうヘトヘトでストレスが溜まっているからね。

──『帰って来たドラゴン』は、クライマックスとなる倉田さんとブルース・リャンの10分を越える対決が最大の見せ場です。

倉田 あのくだりは、たぶん1カ月半以上かかってますね。

──倉田さんとリャンの立ち回りだけでそんなに!?

倉田 朝から晩までずっと二人だけで撮影です。休み時間もほとんどない。

──路地、教会の屋上(※マニアがロケ地巡りで訪れる聖フランシス・ザビエル教会)、荒野へと場所を変えて延々と戦う。撮影のさなか、どういうお気持ちでした?

倉田 肉体的にはきついけど、ブルース・リャンと二人でアクションすることがとにかく楽しくてしょうがなかったです。

──両者の呼吸が合わないと、あんなに激しく流麗なアクションにはなりませんよね?

倉田 その点、僕たちはお互いにコントロールできるので、真剣にぶつかりあっても怪我をすることもなかったです。

──途中、リャンはヌンチャクを出し、倉田さんはトンファーで応戦する。それでもアクシデントもなく?

倉田 怪我はしなかったんですが、戦いの果てに僕が息絶えるシーンで、リャンがジャンプして僕にとどめを刺すところは、もっと高く跳ぶようにと監督から言われて、10回も撮ったんですよ。

──10回もあのとどめの一撃を!

倉田 おかげで香港に帰ってから、毎日頭が痛くて吐き気がして。病院に行ってレントゲンを撮っても原因が分からない。要は、むちうち症だったんですが、1カ月くらい症状が続きました。

──次の撮影に影響は?

倉田 治りかけの頃にウー・シーユエンが、「同じメンバーで今度はローマで撮影するんだけど行くか?」と声をかけてきたんです。僕はまだ身体が痛かったんだけど、「行きます!」って。ウー・シーユエンが撮る映画は当たる(ヒットする)からね。

──なるほど。ローマでの撮影はいかがでしたか。

倉田 ウー・シーユエンは、現地に住む中国人コーディネーターでも撮影許可が元々取れない場所で、アクションの撮影を要求するんです。

──異国の地でゲリラ撮影ですか。

倉田 カメラマンはカメラを隠して、僕とブルース・リャンはあらかじめ衣装を着ていて、観光客のように振る舞う。それで人がいなくなったら、僕とリャンは立ち回りをして、カメラを回して、誰か来たら逃げるという(笑)。

──すごいフットワーク。

倉田 究極は、バチカン(市国)のサン・ピエトロ大聖堂の広場。日曜は観光客が何千人と集まる。そこで逃げる、追いかけるというシーンをウー・シーユエンは盗み撮りをするんです。案の定、制作スタッフは捕まって警察に連れていかれた。その間も撮っちゃおうとカメラを回す。この監督はすごいなと思いましたよ。

──その映画は『無敵のゴッドファーザー ドラゴン世界を征く』の邦題で公開された1974年作品ですね。当時の倉田さんは、日本に戻って仕事をしようというお気持ちは?

倉田 全然なかったね。日本には親に会いに帰省するだけでした。

──倉田さんを虜にした香港映画の魅力を、あらためて言葉にしてください。

倉田 僕は香港の水にピッタリ合ったんです。演技の基礎は磨いていないけど、アクションに関しては自信がある。クンフー映画の3分の2がアクションで、お芝居は3分の1。こんな僕でも芝居にNGがほとんど出ないんです。一方、アクションはNGばかり。さすがに音を上げて、何でこんなに粘ってしつこく撮るのかを聞いたんです。そしたら「香港映画はこれでしか世界に出る道はないんだよ」と言うんです。普通のドラマ作品では相手にされない、「世界が見ているのはクンフーなんだよ」って。「なるほど、自分はこれに徹しようじゃないか」と気持ちが晴れました。