劇団SET創立45周年記念の舞台で演じるのは老け顔の25歳の大学生

――劇団スーパー・エキセントリック・シアター(以下、SET(エスイーティ))創立45周年記念の本公演『ニッポン狂騒時代 〜令和 JAPAN はビックリギョーテン有頂天〜 』のストーリーを聞いたときはどう感じましたか。

野添義弘(以下、野添) 60年代の学生運動とアメリカンカバーポップスを融合させて作っていく舞台ですが、今の時代にも通じるテーマですし、座長の三宅(裕司)さんらしいチョイスだなと思いました。

――野添さん自身、学生運動にはどんなイメージを持っていますか。

野添 1960年の安保闘争は生まれて間もなかったんですが、1968年の全共闘運動はテレビのニュースで何となく覚えています。大学生の方々がヘルメットを被って、ゲバ棒と言われる角材を持って、4列ぐらいになって走っていた映像が記憶に残っています。

――今回の役どころは?

野添 学生の役なんですよ。三宅座長がキャスティングしてくれたんですが、年を取ったおっさんが若作りしているんじゃなくて、老け顔の25歳の学生。自分でも脚本を読んで笑っちゃいましたよ。しかも劇団の後輩が、僕の先輩の役で、僕は学生運動をするグループの中で一番の後輩。ずっとSETの舞台を見てくださっているファンの方々なら、それだけで笑えるっていうね(笑)。

――SETは若い役者さんも多いですが、自身が若手だった時代と比べて変化は感じますか。

野添 演じること自体は年齢関係なく楽しくやれているんですけど、ジェネレーションギャップというか、僕らが今の若手と同世代のときと、同じ感覚ではないような気がします。僕らが若手の頃は、年上の方がいたり経験豊富な人がいたりすると、緊張もする。自分なんかが意見を言ってもいいんだろうかと迷いますし、「まだまだ僕らなんか……」という気持ちもありました。今の子たちは、そういうところは全然意識しなくて、聞きたいことは聞くみたいなスタンスで羨ましいですね。僕もそういう性格でいたかったなと。

――総じて先輩に対して萎縮しない若手の方が多いんですか?

野添 そうですね。特に外の舞台に出たときに感じるんです。20代の子たちは、フランクに接してきますよね。それは僕に限らず、大御所の俳優さんに対しても、「飲みに行きましょうよ」と気軽に話しているので、今の若い子たちはすごいなと感心します。

――距離感の詰め方が上手いんでしょうね。それは、ここ最近の傾向なんですか?

野添 この10年ぐらい、外でも大きな舞台をいろいろとやらせていただいているんですが、そう感じることが多いです。裏返すと、世代に関係なく、みんな仲良く、楽しくやれているということなんですけどね。

――外の舞台に出るときは意識も変わりますか。

野添 演出家の方にしても共演者の方にしても、初めての方が多いので緊張します。こればかりは慣れることがないですね。ただ、SETの舞台でも緊張するのは変わらなくて。この世界に入ったのが23歳で、24歳からSETに所属しているんですが、毎回緊張でドキドキします。特に初日の本番前は何度もトイレに行ったり、舞台袖で嗚咽をしたりが未だにあるんですよ。

――外の舞台だと稽古でも緊張するんですか?

野添 この仕事は合ってないのだろうか、なんでこんなことをやっているんだろうかと自分でも思うぐらい緊張します。役者を始める前からそうなんですよ。人前に出てしゃべるとか、何かするのが大嫌いな人間だったんです。なのに、こんな仕事をしているんですが基本的には苦手です。やるしかないからやっていますけど(笑)。

――そんな野添さんが、どうしてこの世界に入ろうと思ったんですか。

野添 僕は大阪出身なんですが、地元でスーツアクターのアルバイトをしていた時期が5年ぐらいあるんです。高校を卒業して、アルバイトを探しているときに「デパートや遊園地でスーツアクターをやりませんか」みたいな募集を求人誌で見つけて。それまでは工場でネジを作るバイトなんかをしていたんですが、何か変わったバイトをしたいなと思っていたので応募しました。

――お芝居に興味があった訳ではなく?

野添 全くなかったです。僕はどちらかというと体育会系の人間で、動くことが好きなので面白そうだなと思ったんです。それで面接に行ったときに、「来週から練習します」と即座に言われたんですが、お金をもらうのではなく、こっちがお金を出してアクションのレッスンに参加しなくてはいけなくて。約3週間のレッスンが持ち出しになってしまったんですが、そのときにアクションの基礎を教わって。基礎ができるようになったタイミングで、遊園地などに行って、スーツアクターとしてショーに出始めました。

――バイトとはいえ、ちゃんとしていたんですね。

野添 当時、東京でアクションチームを持っていらっしゃった先生が、大阪にもそういうアクションチームを作ろうということで始まった組織だったんです。そこに僕が、たまたまアルバイトで入ったんです。