臨床心理士として患者と向き合うときの距離感が難しかった
──撮影中、何か印象的な出来事はありましたか?
永瀬 先ほども言いましたが、僕は写真も担当していたんですよ。それで撮影場所から300メートルくらい離れたところでカメラのセッティングをしていたら、突然、「ウオーッ!」という(井浦)新くんの叫び声が聞こえてきたんですね。僕は最初、それが新くんの声だとは気づかずに、なにか揉め事が起きたと思ったんです。今どきの撮影では珍しく、スタッフの人が誰かに罵声を浴びせたんじゃないかって。「うわ、これは大変だぞ」と思って様子を見に行こうとしたら、今度は希子ちゃんの雄叫びが聞こえてきて……。
──どういうことでしょう?
永瀬 僕も不審に思ったんですよ。だって脚本には、そんな声を荒げるシーンなんてなかったから。それで話を聞いてみると、たしかに脚本上は淡々としゃべる場面だったものの、甲斐監督の鶴の一声で二人のお芝居が変わったらしいんです。感情を前面に出すように変更して。
水原 甲斐監督、そういうところは現場で臨機応変に対応していきますからね。私たちなりに感情を高ぶらせて声を出しました。
永瀬 いや~、でもあのときの二人の叫び声はすごかったな。僕も同業者だからわかるんだけど、あれは単なるお芝居じゃないですよ。魂が乗った叫びだから、僕も思わずギョッとしたんですね。そうした生の感情が入った迫力も感じていただけたらと思います。
──『徒花』では心理面での葛藤が非常に繊細に描かれています。演じるのが難しかった面もあったのでは?
永瀬 僕は医者の役だからさておいて、新くんなどは主人公・新次と“それ”(※自身のクローンのことを作品内ではこう呼ぶ)の2役をこなさなくちゃいけないんですね。これは相当に難易度が高いですよ。まったく同じでもダメだし、かといって似てなくてもダメだし……。その按配が本当に微妙で。
水原 新さんの演技にはビックリしました。現場で見ていても、「どうなっちゃうんだろう?」と思いましたね。まるで一人の人間が分裂しているような感覚。しかも実際の撮影は新次と“それ”を交互に別々で撮っているのだから、本当にとんでもないことですよ。
──そんな水原さんも、新次に付き添う臨床心理士という難しい役どころです。
水原 患者と臨床心理士ということで、新次とは絶妙な距離感を取らなくてはいけないんですね。そこが大変でした。特に撮影の前半は「これでいいんだよね?」という感じで、自分でも探り探りな面がありました。距離感を手探りで見つけていくときの揺れる気持ち……それはある意味、まほろ(※水原が演じた臨床心理士の名前)が新次に対して味わった感情と同じだと思うんですよね。ずっと居心地の悪さというか、不安感を抱えながら撮影していました。
永瀬 不安を感じる必要なんてないくらい完璧でしたけどね。まほろなりの距離感の感じも、醸し出されるものはパーフェクトでしたし。そうかぁ……なるほど。色々生かされていたんですね。僕は、正直あまり映りたくないくらいでした。
──映りたくないというのは?
永瀬 言い方がアレだけど……(笑)。この映画の主題の部分にもなるんですけど、「自分は“それ”を殺してまでも生きる人間なのか?」という葛藤を新次は抱えるわけですね。そこに答えを出せるのは、他の誰でもなく自分自身でしかないんです。人は決断する時に心の中で葛藤しますよね。「それでいいのか?」「いや、やっぱり」って繰り返す。その心模様の“揺れ”が具現化されたものが医者じゃないかと思ったんです。新次の心の葛藤が目の前に現れているという。だから僕は透明でいたかったんですね。医者個人としての感情は抜きにして、変な主張をすることなくフラットでいようと。ところが医者は言葉では肯定しかしない。なので、負の部分のノイズを感じられるような仕掛けを監督と相談しながらその場に立っていました。まほろに対しても同じような感覚で。そこに存在するのだけど見えないような医者でいたいと。医者は白い衣装(白衣)を纏っていますが、白という色は“純粋無垢”な“生”と“白装束”の“死”を表す色でもあるし。