アイドルから会社員となって演者側でなく「人に脚光を浴びせられる喜び」を知るも…
――高校卒業後に女優としての「どん底」を味わいながら、一変。20歳で、SDN48のメンバーとなりました。女優からアイドルになるのは、珍しいケースですよね。
大木 そうですね。女優として必死にオーディションを受ける生活が10代の終わりまで続いていたのですが、ある日、仲の良いヘアメイクさんから「秋元康さんが20歳以上の女性限定のグループを作っていて、その二期生を決めるオーディションがあるらしいよ。受けてみたら?」と誘われたんです。
すでに色々な作品に出演していた自分がアイドルという他ジャンルで受け入れてもらえるか分からない不安もありました。でも、「とにかく新しいことにチャレンジしてみたい」と思って、思い切ってそのオーディションを受けてみることにしたんです。
同じ時期、4つ上の姉に「もしも将来に不安があるなら奨学金を借りて大学に行くのも、ひとつの手段だよ」とすすめられて。その言葉に導かれるようにして、19歳で短大へ進学しました。
――短大入学と、アイドルグループへの加入が、同じタイミングだったんですね。その後、アイドル活動はすぐに慣れましたかか?
大木 最初は慣れませんでした。加入当初は業界の常識や勝手がよく分からなくて、とにかく先輩に失礼がないように気を張っていました。中でも印象的なのが、ある日、グループの先輩から楽屋に呼び出されて。そこで「今後は、これまで女優として活動していた頃の経験は一切忘れて下さい」と言われました。
そこで初めて「あぁ、アイドルグループというのは『団体戦』なのだ」と感じました。もちろん個々で活躍することも大切ですが、その先輩の言葉があったからこそ、改めて今後はプライドは捨てて活動しなくては、と強く思うようになりました。
――ところが、SDN48は2012年3月に活動終了しました。
大木 そうなんです。突然、メンバー全員「一斉卒業」となって。応援してくださるファンの方と会えなくなる寂しさと共に、「また、道半ばで活動が終わってしまった。これからどうする、私!?」と、焦る気持ちが芽生えましたね。
次のキャリアをすぐ選択することが出来ず、グループ卒業後はひとまず22歳で地下アイドルになりました。SDN48 時代には数百人もいたファンの方が、100人、50人、10人…と減っていき、平日の昼間には3人しか観客がいないライブもありました。
それでも私の誕生日にファンの方が生誕祭を企画してくださったり、応援のお手紙を書いてくださり、そういう体験のひとつひとつは本当に嬉しかったし、やりがいはありました。
ただ、やっぱり2年ほどで活動がままならなくなったんです。ファンの皆さんのことは家族のように好きでしたが、やはり経済的にも大変で「そろそろちゃんと次の目標を考えなければ」と思うに至ったんです。また、ジェットコースターのように急降下する感覚に陥りました。
――そして、25歳でWEBメディアで記者として働かれるようになったんですね。
大木 そうです。毎月、決まったお給料がいただけて、生活に不安もなくて、社会的な保障も手厚い。そんな安定した生活を手に入れたくなったんです。芸能界へ入った14歳の頃から人生がずっとジェットコースターのようだったので「今度こそ安定的な生活がしたい」と思いました。
WEBメディアで会社員の記者として働くようになってからは沢山バズ記事を書かせてもらったり、全国各地に取材に行ったりして楽しかったですね。当時の仕事で言うと、記者として1時間1000円の「おっさんレンタル」を体験する企画記事を書いたのですが、その記事は配信後に数百万PVを獲得して、物凄いバズを起こしました。
その時、これまでの人生で初めて「裏方の人間として人に脚光を浴びせられる喜び」を味わったんです。次第に、そのメディアで記事広告も売る営業担当を兼任するようになりました。
でも、仕事は楽しかったのですが「寝ずに頑張る」と張り切っていたら心身が疲れてしまって。ある日、突然、疲れがピークに達して通勤途中の駅のホームで歩けなくなってしまい、28歳で退職を決めました。