大島渚監督の作品からは生きた血の匂いを感じる

ここ最近、自意識が肥大化している。

「どんな自分でいたら愛されるだろうか」そんなことを考え始めれば、私は都合がつかなくなる。

それでも、私は私を必要とされたくなって、こんな取り止めのない文章を書いている。

ぐつぐつと頭の中が煮詰まってきて、家の中をうろちょろしてみる。

もう、拳で語った方が早いわ、こんなもん。なんか殴らせろ。そんな気持ちになってくる。

それでも、賃貸であるこの部屋には私が殴っても良さそうなものはほぼなくて、奥歯を噛み締めるしかない。

こんな時に決まって観たくなるのが、血と暴力である。

国立映画アーカイブにて、大島渚監督の没後10周年記念上映が行われ、私は『青春残酷物語』(1960/大島渚)を観るために、銀座の街へと向かった。

大島渚監督の作品からは生きた血の匂いを感じる。

それに私は殴られるように衝撃を受けることもあれば、勇気づけられるように手を差し伸べられたこともあった。

場内はとても賑わっていて、亡くなった後も老若男女国籍問わず愛される大島渚作品の凄みを感じた。ここにいる皆がこの作品を愛していると思うと、なんだかこの空間すら愛おしい。しかし、謎の熱気でむさ苦しいのも事実であった。

上映が始まると、気持ちのいい暗闇に全員が溶け込む。

今で言うエンドロールが最初にきて、嘘か本当かわからない新聞に真っ赤な名前の数々が浮かぶ。

スクリーンに映る夜の銀座の街は今とは全く違う風景だ。

車の窓を叩いて家まで送ってもらおうと企む高校生の女二人。しかし、友人が降りた後、中年男と二人きりになってしまった真琴は、ホテルに連れ込まれそうになってしまう。

そこに現れて男をぶん殴り成敗したのが、清。まだ大学生だ。

彼の目には冒頭からギラギラとした殺意が宿っており、これは正義を建前にした私利私欲の暴力だと感じさせられる。

しかし、清に救われた真琴は後日、海岸でデートをすることにする、

そこで真琴にキスを拒まれた清は、真琴をぶん殴って海に突き落とした。

そして泳げないと叫ぶ様を笑って見下す。何だこの男。

そして暴力的なまま海に浮いた材木の上で身体を重ねる二人。

こんな男は絶対にやめといた方がいいのに、その後、真琴が放った言葉は「嫌いだから抱いたんじゃないのね?」であった。何だこの女。

ここから彼女は、夜な夜な金の工面のために見知らぬ男の車の窓を叩き、乗ることになる。そしてホテルに連れ込まれそうになるところで清が登場。殴って金をせびる。そんな作戦の手助けをさせられるのであった。

犯罪の片棒を担がせる清にも「好きって言って」と愛を乞い、最後には「好きだよ」の言葉を引き出し、家にまで転がり込んでしまう真琴の根性と感性はどこからくるのか、私には不思議だった。これじゃまるでストックホルム症候群だ。

中でも、忘れられないシーンがある。

妊娠した事を報告する真琴に「そうか!」と笑顔を見せる清。二人は踊り出す。

そしてその末に清は真琴の肩を抱きしめ、「堕せばいい」と笑顔で言う。じゃあ踊るなよ。

そんな清にも「どして?どしてよ」とゆりやんレトリィバァのコントを思い出してしまうほどに真琴は問う。こんなデリカシーのない男に対して何を聞いたって無駄だ。

しかし、真琴は清に愛を問い続ける事をやめない。

清のビンタがリズミカルでクセになってきた頃、二人は逮捕され、最後に「俺たちは物か道具になるしか生きていけない」と清は別れを告げる。

その言葉には、清が初めから持っていた生きる上での世界への絶望感が滲み出ていると思う。

その通り、弱者の言葉に耳を傾けるほどこの世界は優しくない。

そして全てを失った人間は、自分を見捨てた世の中に復讐をしようと拳を握る。

拳でしか語れなかった清の気持ちを考えると、ここまでの暴力がなんとも非力に思える。

真琴のダメ押しの「どして?」の言葉にも応じずに二人は別れることになる。

そしてその直後、二人には壮大なギャグとも思わせる残酷な最期が待ち受けるのだ。

愛し合うことすら諦めた後に待ち受けるのが尚更大きな悲劇だなんて、全くもって救われないじゃないか。

しかし、このどうしようもなさが心地いい日が私にはある。

帰り道電車に乗っていると、不思議とカップルに優しくしたくなって、席を譲った。

彼らもまた、青春の残酷な愛情を楽しんでいる真っ最中なのかもしれない。

私は一生愛するとか言われたってまだ信じられないけど、一生殴り合おうとか言われたらもはや信じてしまいそうだと思った。