分からないものは分からないと傍観することも必要

――初めて『モンスター』の台本を読んだときの印象はいかがでしたか。

松岡広大(以下、松岡) 非常に難しい戯曲だなと感じました。話し言葉をそのままの状態で台本に起こしているような口語的な戯曲で、あまり言葉を断定しないというか、言い淀むような表現がたくさんあるので、なかなか確信をつかない難しさもありつつ、会話の応酬が面白いなと思いました。

――松岡さんが演じるダリルは14 歳の少年で、共感性に欠けていて、生死についての倫理観なども不足しています。

松岡 ダリルは、この世界の複雑さから逃れるように、激しい言葉と行動で人を傷つけます。暴力的な彼の行動は彼の生得的なものなのか、大人からの影響とその環境によるものなのか……。イギリスの戯曲ですが、日本でもこういったことは起きていると思うし、この苦しさや切迫感は、どの場所にもあるのではないかと思っています。それを演じるのは生半可な気持ちではできないことだなと思います。

――ダリルを理解するために、どんなことをしましたか。

松岡 ADHDやASDの学術書を読んで勉強しているのですが、これまで分からなかったものに対して、固有名詞を付けると分かりやすくなるところもある一方で、それによって排除されてしまう人たちもいて。ある程度の規範を作ることは、そこからあぶれてしまう人たち、不幸になってしまう人たちが絶対にいると感じました。だからといって規範が悪いものとは言えないし、そうしてあぶれた人たちに対して、どこまで手を差し伸べるかという話だと思います。ダリルがかわいそうに見えるのも違うし、肯定するのも違うのかなと思うので、絶妙な塩梅でお芝居ができたらなと考えています。

――そんなダリルに魅力を感じるところはありますか。

松岡 ダリルは社会規範や法律といったものを知りません。それは純粋無垢とも言えるのですが、大人の世界は頭の良い人たちが作った世界だから、そこから淘汰されていく人でもある。純粋さは時に暴力でもあり、直感で思ったことを言うのは、他人からすると短絡的だと受け取られるかもしれないけれど、心の奥底からくるものだと思うので、そこは魅力的です。

――松岡さんがトムだったら、どういうふうにダリルに手を差し伸べると思いますか。

松岡 今の時代は、あらゆるものに手を差し伸べすぎだなと思うことが多々あります。マイノリティ・マジョリティだと数の多いほうが圧倒的に有利になってしまうのが世の常なのかなと僕は思っていて。もしかしたらマジョリティ側が手を差し伸べたり、救おうとしたりするよりも、無関心なほうがマイノリティの人たちは生きやすいのではないかと勝手に思っています。分からないものは分からないと傍観することも必要だと思うので、僕がトムだったら分からないことに対して、ある程度の距離感を持つことを大事にします。それは決して冷たい態度ではなく、その人がその人らしく生きるためにする行為だと思っています。

――距離感は保つけど、理解をしたい気持ちはあると。

松岡 できるだけ理解はしたいなと思うのですが、分からないものは分からないまま進めるのも一つの手なのかなと。芝居で言うと、僕は役を分かろうとし過ぎて、焦って頓挫したことが何度かありました。僕はどちらかというと役を理解するとき、虫の目で近距離からグッと見てしまうのですが、鳥の目で見ないと到達できない境地もあると思うので、部分的には虫の目で、それで分からないときは鳥の目で広げて見るのは、どんな役のときでも共通しているかもしれません。