皆が正気のままカオスに立ち向かう『エブリシング エブリウェア オール アット ワンス』

朝起きてから眠るまで、きっと世の中の役に立たないであろうことばかりを思考してしまう。

意識はどこからくるのか、朝起きた私は昨日の自分と地続きなのはどうしてだろうか。

そうして考えすぎると、本を読みたくなって、私は日常を生きる上での大切なことを置き去りにしてしまう。

郵便の再配達とか、冷蔵庫で腐りそうな野菜とか、今夜出さなきゃ行けないペットボトルのゴミとか。

生活が苦手で、不器用なくせに、未知の物事にすぐ疑問を抱いてしまうから、「アホのくせに」と嘲笑されることが結構ある。生きるとはなんと難しいのだろうか。

いっそ、空想の世界にずっと浸っていたいとすら思うが、現実から私を呼ぶ声がある限り、それは難しい。

そんなことに悩んでいる日々の中、『エブリシング・エブリウェア・アットワンス』(2022/ダニエル・クワン ダニエル・シャイナート)を観た。 様々な批評が飛び交う今作、「実写化クレヨンしんちゃん」「レミーの美味しいレストラン必修」などと不可思議な感想がネットには溢れ、私は困惑しながらもチケットを予約した。

上映の日は、雲ひとつない青空で、風も清々しく、私は母を誘って、二人で日比谷公園の新緑を味わった後に映画を見ることにした。燦々と降り注ぐ太陽の下で見る藤の花は葡萄のようにみずみずしく、白くあたりを染めるハナミズキは眩しいほどだった。

母は私のためにおにぎり、唐揚げ、卵焼きを作ってきてくれて、私は喜んで全てを平らげた。エモい。これはやばいかもしれない。

おやつの時間には上映が迫り、私は多少恥ずかしい気持ちになりながら映画館のシートに 座った。

この物語は母と娘がメタバースの世界で愛を持ち寄りながら戦うというような内容であるということは知っていたので、あんまり家族愛が輝かしい内容だと、映画よりも照れくさい気持ちが勝ってしまいそうだ。

若干の緊張感とともに場内は暗くなり、本編が始まる。

その2時間半後、私は「やられた……」と心の中で呟き、肩を揺らして泣いていた。最高の映画だった。

主人公は私と同じように、生活に必要なことが頭に入ってこずに苦労していた。それでも、それを武器に愛のために戦ったのだ。

ちなみに母は途中滅茶苦茶寝ていた。そんなことある?

終わった後にまだ余韻に浸りながら鼻をすする私に母がかけた言葉は「柚しか泣いてなかったよ」だった。そんなことある?

私はこの連載を読んでくれているかけがえのない読者の皆様に問いたい。エブエブ、どうでしたか?石のシーンとか、本当に優れた愛の表現じゃありませんでしたか?

石が転がり落ちる様であんなに泣かされたのは、生まれて初めてです。

泣けとは言わないが、感想にこれほどまでの差が出るとは、本当に面白い。エブエブ、恐るべし。

真の「人の強さ」は武力や社会的地位ではなく、「自分が追い詰められている時にどれだけ 人に優しくできるか」であるというメッセージは、今の私にとって大きな衝撃だったし、このままでも良いと許されるような気持ちにもなり、その包容力にさらに泣けた。

私はこの映画のようなカオスの世界観が好きで、加えてそのカオスの真ん中にあるのが愛だと、さらに弱いのだ。

そしてこのカオスというのは常々難しいと考えていて、つい最近読んだ、正朔の『舞踏馬鹿』(論創社)という本に書かれていた、「狂気をびっちり詰めれば、正気になる。正気をびっちり詰めれば、 狂気になる。溢れ出さないように、いかに梱包管理するかが大事。」という言葉は特に私に刺さった。カオスの本質として的をえていると思う。

狙ったカオスはカオスとしての役割を果たしてくれないというのは、なんだか耳が痛くなる話だ。そうした意味で、この作品の登場人物は、皆が正気のままカオスに立ち向かっていたので、そこがとても好きだった。

母と別れた後、帰りの電車で聴いたのは藤井風の「きらり」だった。「戦おうとも動機は愛がいい」という歌詞がいつもより心に沁みて、なんだかもう一度泣きたくなった。