一人称が“私”であるために、捉え方が一つになるのはもったいない
――1stフォトエッセイ『履きなれない靴を履き潰すまで』は、『週刊SPA!』で約3年半連載してきたエッセイを中心に構成されていますが、最初に連載のオファーがあったときは、どういうお気持ちでしたか。
若月佑美(以下、若月) オファーをいただいたときに担当編集の方が「若月さんが書いていたブログの言葉がとても素敵だったから、テーマはノンジャンルでいいので、ぜひ文章を書いてみませんか」と仰ってくださって。それまで言葉での連載を持つ経験もなかったですし、まさか文章を評価していただけるとは思っていなかったので、うれしい気持ちと驚きがありました。
――もともと文章を書くのは好きだったんですか。
若月 好きでした。日記みたいな形式で書くこともありましたし、絵を描くときも文字ありきで、最初に文章でどういう気持ちかを書き出してから絵にしているぐらい、言葉を大事にしています。
――フォトエッセイの序文にも、「自分にとって言葉は大切なもの」と綴っていますが、言葉の重要性は学生時代から感じていたのでしょうか。
若月 そうですね。学生時代は倫理と国語の授業が大好きで。数学や理科って絶対に正解があって、〇か×しかないですけど、国語だと「作者の感情を何文字で書け」みたいな問題で、〇と×の間に△があって少し点数がもらえたりする。自分の答え次第で、何かが報われる体験をして素敵だなと思いました。倫理でいうと、デカルトやパスカルなど、様々な思想家の勉強をしていく中で、一つのフレーズで心が軽くなる経験が何度もあったので、言葉が人に及ぼす影響力は大きいんだなと感じていました。
――曲の歌詞に影響を受けることもあるんですか。
若月 あります。パッと思い浮かぶのは初音ミクの「アイロニ」という曲で、上手くいかないことに悲しんでいる主人公がいるんですけど、どん底に落ちた人の言葉ではないんです。上手くいきそうだけど上手くいかないことばかりで、どん底まで落ちることができたら悲しめるのに、そこまではいけない。逆に手に届きそうだからこそ、いろんなことを期待してしまって、そんな自分が苦しいという繊細な歌詞なんです。そういう狭間の感情って人には相談しにくいというか、相談しても「それは幸せな悩みだよ」「もっと大変な人はいるよ」って言われてしまうかもしれない。そういう狭間の葛藤をしている人の歌を聴いて、なんて素敵なんだろうと思いました。アーティストで言うと、平井堅さんの歌詞も繊細で大きな影響を受けています。
――フォトエッセイには、まさに歌詞としても成立する文章も収められていて、すごくリズミカルだなと感じました。
若月 ありがとうございます。読んでいて気持ちいいリズムを意識しているんですけど、それは自分の感覚なので、他人が読むとそうは感じないかもしれないという思いもあります。あえて言い回しなどをぶっきらぼうにしているところもあって、繋ぎ目の接続詞がおかしかったり、倒置とか逆説とかいろんなものがぐちゃぐちゃに入っているタイトルがあったり。それには意味があって、友達と会話しているときに文法なんて気にしないじゃないですか。そういう親しみやすさを持ってもらえたらいいなと思って、きっちり校閲が入らない状態で掲載していただきました。
――自由だからこその難しさみたいなものはなかったですか。
若月 基本的には楽しく書かせていただいたんですけど、書いている人間が一人なのでボキャブラリーというか、伝えたいことが同じになってくることもあって。率直に今の気持ちを文字に起こしたいけど、数週間前に書いた文章と似てしまう。起きている出来事は違っても、感情が一緒だったら、伝えることは一緒になってしまう。そこが被らないように書き直すこともあって、その調整は難しかったです。
――一人称が自在に変化するのも興味深かったです。
若月 序盤は“私”って書くことが多かったんですけど、途中から“僕”が多くなりました。というのも一人称を“私”にしていると、「若月さんは今こういう感情なんだ」「こういうときにこう思うんだ」と私自身のことだと思って受け取ってくださる方が多くて。でも実際の文章は私一人のことだけじゃなくて、友達の話だったり、電車で目の前にいる人がどういう気持ちなのか勝手に想像して書いていたりするんです。一人称が“私”であるために、捉え方が一つになるのはもったいないなと思って、あえて別の主人公がいる設定に変えていきました。
――一人称の問題って、人に向けて文章を書くことで気付かされることが多いですよね。
若月 まさにファンの方からのメッセージで、そこに気付くことができたんです。