小学校からの環境では「期待に応えなくては」とプレッシャーに苛まれていた
――これまでのキャリアを振り返っていただきます。まず、幼少期の思い出は?
RION 京都の田舎にある小さな町の出身で、実家が家族経営の会社をやっているんです。おじいちゃんがずっと社長でいて、小さな町でしたし生まれたときから「あの会社のお孫さんだ」と周りによく認識されていました。一族の名字かつ「これからも期待しているよ」という周囲の目線に常に囲まれている状況で、2歳のときに「外では絶対に泣くな」と教えられたんです。今のコンプレックスにもつながりますけど、ずっと「ちゃんとしないといけない」という意識が根付いていて。外で泣いたら「もうどこにも連れて行かない」と言われたし、ご飯を食べるときも「ちゃんとしなさい」と言われ続ける環境で育っていたなと、最近感じています。
――厳格なご家庭なんですね。その後、小学校以降の思い出は?
RION 自宅近くの公立小学校に入学したんですけど、受験して、小学2年生からは私立に行ったんです。大学までのエスカレーター校で「名門校だし、期待しているよ」という声が加速したし、登下校中に制服を着て走り回っていると指導が来る環境だったので、よけいに「ちゃんとしないといけない」と思いました。背負わなくてもいいのに過敏に感じ取ってしまっていたから、自分がどうするかではなく「周りがこう思ってるならまっとうにしなければ」という性格になっていきました。
でも、悲観してばかりではなく性格は明るくて、同級生のお母さんから「RIONくん、応援してるよ」と好かれることも多くて。よくも悪くも一目置かれている存在で、一度、高校時代に苦しくなったんです。他人の視線におびえるほど、感じなくてもいい圧を感じてしまって、今”ODDLORE”に入るきっかけにもなった「他人軸で生きてしまう」というコンプレックスがしみついてしまったんです。でも、歌とダンスをやってこなかった人生でしたけど、テレビっ子だったから芸能界には憧れがあって、コンプレックスを受け入れてくれるグループにスカウトされたので加入しました。
――周囲の目を気にする一方、これまでの人生でグループ加入以外でみずから選択したことは?
RION 通ったエスカレーター校は高校までずっと制服でしたけど、小学6年生で、卒業式のあとにクラスでご飯を食べようとなり、小学校生活で唯一私服で集まる機会があったんです。僕が好きな格好で行ったらみんなから褒められた経験が大きくて、そこから「着たいものを着ていいんだ」と思って、単純なものですけど「自己表現していいんだ」と思えるきっかけにもなり、洋服への興味が広がりました。大学時代は、スーツのテーラーを勉強できる専門学校とのダブルスクールで通っていたんですけど、次第に「作る側より、いいものを着て世の中に伝えられる人間に」と思って、歌やダンスは洋服と違う表現の仕方ですけど、新しいものに身を投じる絶好のチャンスだと思って、自分を変えられました。