役者に求められる、機敏な感情への察知能力とは
目は口ほどに物を言う。
本当だろうか。
視線から読み取れる相手の感情に正確性は無いが、そもそも視線というものはどこか恐ろしいと思う。
特に子供の目というのはこちらに物凄い自意識を与えてくる。
その目を通して映っている「自分の正しさ」について考えさせられざるを得ないのだ。
観られることの自意識と向き合うことは、「見破られる」ことへの恐怖を抱くことと一体だと思う。
そもそも役者は多くの視線を集める。
舞台上で嘘の肉体を操ることになるが、そう感じてしまえば、観客の目は複合されてもはや大きな一つの恐怖の対象のように感じられることがある。
視線が怖くなる時、自意識に苛まれ、見られる事ばかりを考えてしまう結果、今度は見ることを忘れてしまうのだ。
このように、眼差すことの不思議さは私たちの意識の下に隠れていると思う。
芝居中に相手の顔をじっと見ている時、相手の顔に新鮮さを感じ、時間の流れを奇妙に感じる事がある。
きっと私は、普段相手を見ているようで細部までを、はっきりと見ていないのだろう。
見られることの自意識からくる、歪んだ虚像を見出しているだけに、過ぎないのかもしれない。
不思議な時間の流れの中で、いつもよりも繊細な感覚を味わう時、私は何物にも変え難い芝居の楽しさを感じる。
舞台上の役者の身体は一体誰のものなのだろうか。
役を通して何者かになることを目指して台本を読み込むが、結局舞台上に在るのは紛れもない私の身体で、そこではいつもよりも注意深く自分の感情と向き合うことになる。
それは結局何者でもない自分自身の心と向き合うことなのかもしれない。
舞台上で日々何度も繰り返す、役としての「体験」を生き生きとしたものにするためには、普段から自分自身の心に対して嘘偽りなく在ることが求められる。
私たちは生活の中で、緊張を強いられながらあらゆる人の影響を受けている。
そんな無意識の緊張の中で、「嘘偽りのない自分自身」というものは分かりづらい。
感情を抑え続けると、感受性が鈍り平坦化していくのがよくわかる。
だから私は一日に一度、必ず全身をリラックスさせる時間を取るようにしている。
身体の隅々まで、スキャンしていくように筋肉の力を抜いて脱力してゆく。
そうすると、身体のそこかしこに隠れていた緊張や怒り、悲しみといった感情までが明瞭になってくるのだ。
緩和とともに濁流のように流れてくる感情が恐ろしくて涙が出てくることもある。
そうして、身体が真に脱力する時、私は日常で抱えていたものがそこかしこに在ることに気づく。
そこで私はやっと、嘘偽りのない自分自身と出逢う事ができるのだ。
完全なリラックスを得た後の身体は五感が研ぎ澄まされ、「いま」という瞬間に集中する事ができる。
それによって、私はより自然な人間の感情表現に近づくのだ。
日常生活では、本当は悲しくても、笑っていなければいけない事が多すぎるし、真面目な顔してわかったふりをしてしまう時もある。
心と剥離したちぐはぐな態度をとっていると、自分の心の感度が下がってゆくのがよくわかる。
役者に求められる、機敏な感情への察知能力というのは、実は、日々の生活で無意識に押さえつづけている「正直さ」なのかもしれない。
ぐるぐると答えのないことばかりを考えていると、いつのまにか外の気温は36度まで上がっていた。
東京丸ごと体温と同じ気温だなんて、抱きしめられてるみたいで気持ちが悪い。
思考が堂々巡りのまま動けない私を笑うように、蝉はうるさく鳴き続けていた。
Photographer:TOSHIMASA TAKEDA,Interviewer:TAKAHIRO IGUCHI,Stylist:YUUKA YOSHIKAWA
衣装提供:ADELLY(Office surprise) TEL.03-6228-6477
撮影協力:Sandwich Store Laugh(東京都杉並区阿佐ヶ谷2-37-13 PETITMAISON 1F)TEL. 03-5356-9133
https://www.instagram.com/sandwichstore.laugh/