部活の練習中に疲労骨折をして挫折を味わう

――学生時代のお話を伺いたいんですが、いつ頃から芸能に興味を持っていましたか。

栁 中学時代から映画が好きで、東京で役者をやるのはかっこいいなと思う反面、僕の地元は仙台なので芸能は遠い世界。だから、そこまで現実味はなかったです。

――学生時代に打ち込んでいたことは?

栁 スポーツ少年だったので、中学まではサッカー、高校時代はバレーボールに打ち込んでいました。

――どうしてサッカーからバレーボールに転向したんですか。

栁 サッカーに限界を感じたというのもありますが、何でもいいから全国大会を目指したかったんです。進学した高校はスポーツが強くて、中でもバレーボールが有名で。クラスの担任の先生がバレーボール部の監督で、「身長も高いし、バレーボールをやってみないか」と誘われたんですよね。見学に行ったら、先輩も優しくて。いざ入部してみたら、めちゃくちゃ厳しかったですけどね。僕を入部させるための優しさで、その企みにまんまとハマってしまったんです(笑)。

――実際に全国大会には出場できたんですか?

栁 僕が高校3年生のときは、勝ったら春高バレー(全日本バレーボール高等学校選手権大会)に出られるという決勝で負けちゃいました。

――それはすごい!レギュラーだったんですか?

栁 それが最後の大会は疲労骨折で出られなかったんです。一つのことに打ち込むと真っ直ぐになる性格で、朝練とかもストイックにやっていたんですよね。しかも高校からバレーボールを始めた初心者だったので、みんなに追いつかなきゃいけないという意識でやってきて、練習のし過ぎで疲労骨折しちゃって。そのときに何事もバランスも大切だという学びがあったんですが、当時は「これだけ頑張ったのに骨折で終わるんだ……」という気持ちで虚しかったです。

――どういう状況で疲労骨折したのでしょうか。

栁 練習中、スパイクを打って着地したときに左の脛を折りました。折れた音が体育館に響き渡り、その瞬間、折れたのが分かって。これから俺はどうなるんだろう……と放心状態になり、そのまま気が遠くなって、気づいたら病院に運ばれていました。リハビリしても大会に間に合わないので、周りの目も気にならないぐらい落ち込みました。

――疲労骨折の前触れみたいなものはなかったんですか。

栁 常に疲れてはいましたが分からなかったです。毎日筋肉痛で足が重いし、スポーツの部活をやっているとそんなものじゃないですか。

――ケガがなければ、高校卒業後もスポーツに打ち込んでいた可能性はありますか?

栁 どうなんでしょうね。ずっと映画や音楽が好きで、ファッションにも興味がありましたし、さすがにプロのスポーツ選手になれるとは思っていなかったので、やりたいことをやっていたんだろうなと思います。

――いつ頃から映画や音楽、ファッションが好きになったんですか。

栁 公立の中学校に通っていたんですが、全国で2校しかない私服学校だったんです。校長先生が個性を大事にする方で、髪を染めても、ピアスをしてもOKという自由な方針で。昔からそういうポリシーを大切にしている学校だったので、自然とカルチャーに興味が湧くんですよね。服を選ぶために、音楽や映画を参考にしていたので、雑誌もたくさん読みました。

――どういう映画や音楽にハマっていたのでしょう。

栁 パンクスが好きだったので、いろんな時代のパンクを聴いて、ロックスターを描いた伝記映画を観て、ファッションも自然と影響を受けていました。ダメージ加工みたいな感じで、わざわざ体操着をハサミで切って、安全ピンを刺す、みたいな(笑)。それが中学で流行っていて。自分で言うのもなんですが、最初に始めたのは僕だったんです。

――ダメージ体操着のパイオニア(笑)。

栁 小さい頃から周りと同じのが嫌で、違うことをしたいタイプだったんです。それに中学生って、与えられた環境でルールを破るか破らないみたいなことが重要じゃないですか。それで体操着を加工したら流行っちゃった。中学生ぐらいって誰かが新しいことを始めると、みんな真似し出しますからね。

――身近にファッションで影響を受けた人はいましたか?

栁 二つ上に姉がいて、僕が中1のときに、姉の同級生の男子がかわいがってくれたんですよ。そうすると、服のおさがりをくれるんですよね。当時、エミネムが流行っていて、主演映画『8 Mile』(2002)が公開された後ぐらいで、それに憧れて先輩方がビックシルエットのデニムを穿いていたんですよ。そういうのをもらっていたので恵まれた環境でしたし、ファッションやカルチャーに触れる機会も早かったです。