幼馴染が側にいてくれるような心地になる『リトル・フォレスト』
最近、スペシャル湯豆腐にはまっている。
スペシャル湯豆腐とは、水、ダシ、豆腐、油揚げを入れて煮たせ、その後小匙一杯の重曹を入れて弱火で煮ると完成する、クリーミーな湯豆腐だ。
そしてこの時、豆腐は豆腐屋で購入したものを使っていただきたく、
ここでかなりスペシャルと普通の差がつくのだ。
こうして煮た豆腐は、重曹の効果によりトロトロに溶け、油揚げは柔らかく煮立ち、まるで湯葉のような食感に出来上がる。これがスペシャル湯豆腐なのだ。
忙しい朝、少し早起きしてコトコトと豆腐を煮ている時、私はいつも一本の映画を思い出す。
『リトル・フォレスト』(2014・2015/森淳一)だ。
もう何度も観ているこの映画は、小森という東北の田舎町に住む一人の少女が、食事とともに、自然に囲まれた自給自足の生活を味わう内容で、生きるということの鮮やかさが、食材、調理、農作、そして景色に美しく映えている。
春夏秋冬を通して日常が切り取られているので、どの季節をとっても、観れば、すぐ隣にいて、暑さも寒さも共に感じてくれる。
そんな幼馴染が側にいてくれるような心地になるのだ。
この作品を観ていると、誰もが人生において抱いている薄暗い部分を改めて思い出す。
主人公は、母親が失踪していたり、東京に上京するもうまくいかず田舎に帰ってきた過去があったり、私たちのように要領を得ない日常を生きている。
そこに私は安心感を覚えるのだ。皆きっと、心の中では忘れてしまいたい暗がりを持っている。
生きていると、認め難い悲劇が、あまりにも突然、前触れもなく襲ってくることがある。
そんな時、「自分にはまだ受け止められない」「幼稚なままうずくまって泣いていたい」と嘆きたいのが本音だ。
しかし、なんとか生きていくより他はなく、ひどい1日の後でも大抵は平気な顔で私達は生活を続けなければならない。
思い切り走った後の口の中は血の味がする。それが生きているということだと思う。
走れば走るほど、口の中には酷い味が広がって、なのに目の前の景色が開ければ、それが生きる価値のありすぎるものだったりして、私は足を止めることができない。
ご飯が喉を通らなくたって、泣きながら走り、生きるために食事を続けなければならないのだ。
つまり、食事は皆に平等に与えられた、生きていくための使命でもある。
「自分のために作る料理は悲しい」と誰かが言っていた。本当にそうだろうか。
大人になると、「生活」はできて当たり前で、誰も褒めてなんかくれないまま、毎日が続いていく。
しかし、「自分のための一手間」を惜しまないということは、自分を正しく愛することに直結すると思う。
味覚が人間に与える幸福は計り知れない。きっと、「美味しいもの」が嫌いな人はこの世にいないはずだ。
現代の流行りや時間の流れに流されて、今を生きているということが不確実に感じる。
将来のことばかりを思えば、今はまるで無いもののように感じられて時間が過ぎてゆく。
「20代はあっという間だよ」と言われ、さらに焦る気持ちを隠せずにいる。
でも、早朝の一瞬、豆腐を煮ているこの何でもない瞬間が、将来、大切に思い出す1コマになるのかもしれない。
そんな優しい気持ちを胸に、私は今日も豆腐屋で、私のための豆腐を、一丁買って家に帰るのだ。
PHOTOGRAPHER:HIROKAZU NISHIMURA,INTERVIEWER:TAKAHIRO IGUCHI,STYLIST:YUUKA YOSHIKAWA