美大時代、東京芸術劇場は私を守る器のような存在だった

「綺麗は汚い、汚いは綺麗」という言葉は、シェークスピアの『マクベス』に出てくる有名なセリフである。

この言葉は、相反する要素が複雑に共存しうるということ、物事が私たちの価値観によって綺麗にも汚くも見えるということを示している。

そしてこれは物質や景色だけでなく、人間の二面性にも当てはまると思うのだ。

 

快晴の日、池袋駅で電車を降りた。

「ここらへんは昔処刑場だったんだよ」と友達が教えてくれたのを思い出してしまって、電車を降りても少し寒い。

確かに、池袋駅は東京に沢山在る駅の中でもより混沌を感じる気がする。

地上に出ると目が痛くなるほど空は晴れていて、それでも、冷えた身体が太陽の光で一気に温まるのが気持ちいい。

眩しさを避けるように地面を見つめて歩いていると、汗がじわじわと出てきて、ぽとりと落ちそうな頃に東京芸術劇場に到着した。

 

劇場の、三角の几帳面で美しいガラス窓を見るたびに私はいつも、不思議な安心を覚える。

美大時代、ここで行われる舞台の数々がその頃の私を感動させてくれて、ここは私を守る器のような存在だったからだろうと思う。

 

今日はピンクリバティの新作公演『点滅する女』を観劇する。

舞台の演出を手がけるのは先日対談してくださった山西竜矢さんだ。

 

今作の舞台は初夏の山あいの田舎町だ。

田村家という家族が中心になっていて、彼らは実家の工務店で働いている。

家族の関係は見かけ上は円満だが、実は長女の千鶴が亡くなって以来、関係がおかしくなっていた。

ある日、見知らぬ女性が田村家を訪れ、自分は千鶴に取り憑かれていると主張する。

その訪問をきっかけに、家族の関係にさらなる亀裂が生まれてしまう。

 

対談に際して、台本を一足先に読ませていただいた時、「自死遺族」という苦しいテーマに向き合う中でも、繊細で美しい台詞が心に残る白昼夢のような本だと思った。

一体どんな演出や芝居がこの世界を織りなすのだろうかと、期待と妄想が膨らむ。

劇場に入ると、舞台セットはリビングの食卓のようだ。上部には緑色の草木を表現した幕が張られていた。

静かな開演前、座席から見える舞台上は、まるで留守中の他人の家庭を覗き見しているみたいだ。