紫陽花のような身体表現の美しさを添える恋のジェスチャー
上演が始まると、舞台は夜の渓谷に一転する。
虫の音がうるさいじめじめとした雰囲気が満ちて、食卓テーブルだったものは、姉妹が歩く橋へと変わる。
円を描くように歩く二人は語り合うが、距離は絶妙に遠い。
「きもさと美しさって表裏だから」
千鶴が言う。
交錯してしまう人間の心と、その愛おしさが描かれているこのセリフが私はとても好きだ。
不穏から一転、舞台が田村家に変わるとそこには一気に、田村家の日常が広がる。
会社の創立記念日に手巻き寿司を食べようと盛り上がる家族。しかし母だけは、亡くなった姉の命日でもある日だから、コロッケにしようと提案する。
間の取り方やお芝居が絶妙で、重くならずに笑えてしまうブラックユーモアが軽やかだった。
しかし、確かに暗い違和感を見て、誰か一人でも家族が亡くなると家庭はこうもぬるく歪んでしまうのだと思い知らされる。
亡くなった姉が吸っていたタバコと同じ銘柄のフィリップモリスを吸いながら、姉の教えてくれた出鱈目な歌を口ずさむ鈴子の背中は華奢で心細くて、無口な妹を重ねて胸がギュッと痛くなった。
そんな鈴子の背中を目で追う工務店店員・太を小突く、工務店店員・夢。
目線で手のひらから花を咲かせるような恋のジェスチャーが、またひとつこの舞台に紫陽花のような身体表現の美しさを添えていた。
時折挟まれる千鶴の日記は、千鶴の恋人の定男が朗読する。
記された本音の一つひとつには千鶴の美学や苦しみ、過去が繊細すぎるほどに感じられるのに、その語り口は穏やかだったので、柔らかい声から想像する千鶴の不器用さが尚更愛おしくなる瞬間が何度もあった。
夢を描いた東京で消費されながらも、頑張り過ぎるほどに自分の才能と闘い抜いた千鶴が思い浮かぶ。
場面が田村家の日常に戻ると、自宅にカラオケ機材がある。
日常では使われないこれを、「パーっと歌おう」と機材を揃えて買ってきた兄の気持ちを思うと切ない。
夢や工務店店員・桜がマイクを握り、リビングに明るさが戻る。
そこに、見知らぬ他人に取り憑いて帰ってきたと言う千鶴が登場する。
母親は断固として千鶴の帰還を信じ喜ぶのに対し、兄は断固拒絶した。
それを許せない母親は息子に手をあげる。
千鶴に対して、この状況を信じる者と信じない者で家族の関係は分断されてしまうのだ。
更に千鶴は、家族の暗い部分の「暴露」を始める。
桜と父親の浮気を問い詰め、母親は包丁を持ち出す。その他、長男の借金など、家族の隠された一面は次々と明らかにされ、空気は更に緊迫していった。
家族が役割や鎧を脱ぐように捨ててゆき、
崩れるように本音が露呈する様を、微笑みながら見つめている千鶴が印象的だ。
なぜこんな事をするのか。
この行動の背後には「加速主義」という考え方があったのだった。
これは社会学者が唱える一説で、簡単に言えば、不景気の時にはいっそ国が堕ちる所まで堕ちてしまえば、立ち直るスピードがむしろ早くなるという理論らしい。
千鶴はこの考え方を家庭内で実践したのだと話す。
滅茶苦茶な姉の考えに鈴子は怒りをあらわにするが、私には千鶴の気持ちがわからなくもない。
コップいっぱいに注いだ水を表面張力でギリギリ保つような緊張を味わうと、もういっそ滅茶苦茶にさせてくれと思う衝動が生まれてしまう時がある。
千鶴のおせっかいで破滅的な部分はブーメランのように自分にも刺さってしまった。
一見余計なことも、自分からしたら必要だと感じてしまう厄介な性質だ。