相反する要素の共存や人間の二面性について考えさせられた舞台『点滅する女』
大人たちがうちのめされて声をあげて泣くリビングで、千鶴の矛先は鈴子に向く。
鈴子がずっと自分自身を責めていたことを、千鶴は見抜いていた。
川に落ちた自分を助けようとして千鶴は死んだのだと鈴子は思っていたのだ。
逃げる鈴子を追う千鶴は、命を落とすきっかけとなった渓谷に蛍を見に行こうと誘う。
姉妹は二人きりの答え合わせに向かうのだ。
舞台上部の蛍の照明がちらほらと点滅し舞うのが美しい。
沢山の言葉を飲み込み続けてきた鈴子は、やっと会えた姉へ向けて、言いたくても言えなかった弱音も怒りも愛もぐちゃぐちゃにした言葉をぶつける。
爆ギレだ。
セリフの端々にはブラックジョークも散りばめられており、緊張感の中にもクスリと笑える瞬間が沢山あって引き込まれる。
子どもっぽく泣きじゃくりながらも一生懸命に話す鈴子の姿は本当に可愛くて、それは長女で在る私にとって、実の妹を思い出させるものだった。
私には妹が二人いるのだが、何かにつけて真似をしてくれたり、こっそり相談をしてくれたりするのが可愛くて仕方がない。
もしかしたら姉というのは妹にとって、最も近い信仰対象になりうるのかもしれないのだとこの作品をみながら思った。
一番身近にいて、明日すら不安になってしまうような日々をひと足先に歩んでくれるカラッと明るい太陽のような強い味方なのかもしれない。
笑いながら鈴子の頭を撫でる千鶴の目は優しくて温かかった。
千鶴は、泣きじゃくる鈴子に「調子のんな」と言い放ち、鈴子を助けるために溺れて亡くなった訳ではなく、鈴子を助けた後に見たホタルの景色が美しくて、それが自分の愛する絵画とそっくりだったから、わざと溺れて死んだのだと話す。
「だからもういいよ」
舞台全体を通してジメジメとした雰囲気が漂っていたが、不思議と千鶴の声だけは晴れやかで曇りのない存在として感じられた。
それが、家族にとって彼女が太陽のような存在であった証拠なのだろう。
そうして千鶴は成仏し帰って行った。
長過ぎる一日は終わり、朝日が昇る。
2度目の姉との別れを経た鈴子は、本当はずっと、コロッケよりも食べたかったケンタッキーを買って朝方実家に帰る。
リビングには、鈴子の帰りを待っていた父、母、兄が雑魚寝していた。
そして寝ぼけたまま、早朝に家族全員でもさもさと食べるケンタッキーが不味そうで、泣きそうな笑いそうな、不思議な気持ちが湧くのを感じた。
めんどうくさくて複雑な明るさの雰囲気の家族が愛おしかった。
ケンタッキーを頬張る鈴子の表情をみて、
「自分の機嫌は自分で取るように」と千鶴が言いそうな言葉が浮かぶ。
今回、『点滅する女』の観劇を通じて、私は相反する要素の共存や人間の二面性について考えさせられた。
美しいものと汚いもの、喜びと悲しみ、明るさと暗闇が密接に結びついていることを深く実感した。
対談で山西さんが仰っていた通り、この作品に込めた家族の関係性や役割の破綻というテーマは多くの人に刺さると思う。
私にとって、家族愛の複雑さに目を向ける貴重な体験となった。
家族の中で起こる葛藤や隠された部分は、明らかになりづらいほど深刻な問題を引き起こすことがある。
しかし、生まれてしまったトラブルも、コミュニケーションや考え方によっては、それを乗り越える絆にもなりうるのかもしれない。
演劇の力が私たちに与える影響は計り知れないと改めて思う。
今回は事前に台本を読ませていただいていたので、細かいセリフや役者の表情などを楽しむことができて物語に深く没入することができる貴重な体験となった。
舞台作品というものは、日常や内面に新たな視点をもたらし、深い洞察を与えてくれる。
観劇や芸術を通じて、自分自身や周囲の人々との関係性を見つめ直し、発見や成長を遂げることができることは、より良い人間関係を築く糧にもなる。
今後もさまざまな舞台芸術に触れ、その魅力と深みを探求していきたいと思う。
PHOTOGROPHER:TOSHIMASA TAKEDA,INTERVIEWER:TAKAHIRO IGUCHI,STYLIST:YUUKA YOSHIKAWA
衣装提供:MURUA(問い合わせ先:MURUA事業部 東京都渋谷区広尾5-19-15 アドミラル広尾ビル 5F TEL.03-5447-6545)