自然が感じさせる「途方もなさ」は、日々向き合う役者の仕事とよく似ている
何よりも、美しいものは心を豊かにしてくれる。
だからこそ人間はずっと美しいものを求めて繁栄してきたのだろう。
発掘される縄文土器には縄の模様が器用に施されているし、古代から人々は体に穴を開けてまで装飾品をぶら下げたりしている。
生きるのに必要ではないそれらを大切に思う事こそ、何よりも人間らしさであり、それによって自分の中にあるどこか足りない部分を美しさが満たしてきてくれたのだろう。
さらに、美しさは強さでもある。
難解かつ直感的な「美」というものを表現できる人間には、自然と賛辞と権力が集まってきたのだろう。
美は常に、目に見えない力を秘めているのだ。
特に日本人は自然本来の美しさを感じる感性を持つ人が多いという話を聞いた事がある。
対称性や黄金比など、脳が美しいと感じやすい比率は存在するのだろうが、
そもそも西洋と東洋では自然観が全く違うらしい。
東洋では自然は神聖な物と捉え調和を重んじる考えがあり。
一方、西洋ではキリスト教の教えのもとに自然は人の手によって支配する物だと言う考えがあるそうだ。
自然観の地域差の通り、私が疲れを感じた時、見たくなるのは立派な建築よりも山の景色である。
自然の一糸乱れまくりな美しさをみていると、同時に自分がちっぽけな存在に思えてきて、気が楽になるのだ。
目の前に広がる雄大な景色は、美しさと同時に少しの畏怖を感じさせる。
そしてその美しさにはどこか怖さが混じり合っているのだ。
ただそこに立っている木々は、生命のシンプルさを感じさせ、私の堂々巡りだった思考にストップをかける。
この自然が感じさせる「途方もなさ」は、私が日々向き合う役者の仕事とよく似ていると思う。
正解がない中で、役として感じる自分自身の感情がわからなくなってしまう時、私は山奥で右も左もわからなくなってしまった遭難者のように迷い留まる。
しかし、空想の世界を生きる実感を見出した時の高揚感は何者にも変え難いのだ。
舞台上や森の中で感じる、今自分が生きていることへの当たり前じゃなさは、自分自身が生きているという圧倒的事実と食い違って、不安な気持ちになる。
しかし、その歪な違和感は何よりも私に生の実感を感じさせてくれるのだ。