毎日居ても立っても居られないような気持ちだった高校時代

映画の中ならなんだってアリだ。

1000円で10本の映画を借りられるレンタルショップで、私は私だけの世界を選ぶような気持ちでいた。

その自由さに救われて、私は半ば祈るように借りた作品を再生し続けたのだと思う。

内容がカオスであればあるほど私の心はほどかれた。

「ここでは無いどこかへ行きたい」という幼い私にとって達しがたい欲望を、映画がどこまでも許容してくれた時、私は確かに作品から「受け入れられている」と感じたのだ。

恐れていた「まとも」が通用しない画面上の世界は痛快で、狭かった私の世界からは想像もつかない、あり得ないほどの広大な景色、人間の感情、美しい言葉が広がっていて、それは私の背中を押すように心に溜まっていった。

これが、私が生まれて初めて自主的に手にする事ができた「自由」そのものだったと思う。

そのうち私は、画面上の彼女達に強い憧れを抱き、セリフをノートに書き写してはこっそりマネをしてみるようになった。

しかし「女優」という言葉は私にとって大袈裟すぎた。

女として優れているなんてちっとも思えず、鏡を見ればため息が絶えなかった私は、実家で食卓を囲めば、芸能人の噂や批判で盛り上がる家族の中でひっそりと憧れの炎を絶やさず燻らせ続けるのが精一杯で、自分があっち側に行けることなんて、宇宙に行くことくらい無謀だと考えていたのだ。

ついに高校生になっても、胸の中の暴動は激しさを増すばかりで、私は毎日居ても立っても居られないような気持ちであった。

友人達はとっくに落ち着いて新たなコミュニティで自分をどう確立するかとか、そんな大人びた雰囲気を持っていたのに対して、私はまだ自分というものが何一つわかっていなかったのだ。

最高のセリフや何度見ても感動するシーン、そんな美しさは幾らでも私の中にあるのに、それはどれも借り物のような気がして、突然自分を空っぽだと感じた。

自分じゃどうしようもできないほど騒ぎ続ける心は息苦しさへと変わり、私は焦燥感を持て余すようになった。

グツグツと煮詰まるような毎日を過ごしながら、それでも映画を見ると満たされる実感が何度もあって、ついに、こんなにも好きなら何があったって後悔しないと思える瞬間が訪れた。

そして、私はやっと芝居の世界を志す事を決めた。

きっとそれは人生で初めての自主的な覚悟であったと思う。

そこから今まで、私はこの時の選択を後悔した事は無い。