93%の知覚の影響で受け取った目に見えないもの
文章について考える。
書いたり消したりを繰り返して、時間と、自分のフィルターのようなものを、たっぷり通した言葉を届けることができる文章は、記号的で、無機質だ。
しかし、まるで形を帯びたように、胸に突き刺さってくる言葉が偶にあって、それは魔法のように、体温のような暖かさや、鉄のような冷たさなどを感じさせてくれることがある。
連載2回目にして既に、うーんうーんと唸りながらキーボードを打っていた私は、言語というものがどこから始まったのか、とか、そんな原始的な疑問が浮かんでいた。
これだと思って打ち込んだ文章も、次の日に読み返すと陳腐に思えたりするから、文章を書くということは摩訶不思議である。
日本語だけでも単語はどのくらいあるのだろうか。
最初から存在していた訳ではない。大昔から、誰かが作った造語が少しずつ蓄積して、現在、言葉は膨大になった。
きっと、それらを全て数えることは困難だろう。久しぶりに開いた大きな辞書は本気で凶器になりそうだった。
大昔から、人類は、壁に文字を刻み付けたり、恋文を矢にくくりつけてみたりと、言語を用いた創作を続けてきた歴史がある。
しかし、真っさらな土台を目の前に、緊張と、少しの不安と、胸の高鳴りを感じたことは、きっと皆同じだったと思う。
ここから自分がどんなものを創り出せるだろうかと。
対して、喋る言葉は、口に出してしまえば取り消しが効かず、その言い方やニュアンスで、かなり印象が変わってしまうように思える。
『メラビアンの法則』をご存知だろうか。
人間は他人とコミュニケーションを取るときに、言語、聴覚、視覚を用いるのだが、その際7:38:55の割合で影響を受けるらしい。
口頭での言語の影響は7%だけなんて信じ難いけれど、半分以上が、視覚から得る相手の表情や仕草などの影響により、私たちは相手を判断するのだ。
ここから見えてくるのは、役者が台本から与えられる「台詞」に含まれる無限の表現の可能性である。
93%の知覚の影響で受け取った、目に見えないものを、今度は伝える糧にする。
芝居中、見えない温度のようなものを渡し合い、高めていくことができたとき、私はとても楽しい。