女のおしゃべりは現実を乗り越えるための「大切な無駄」

戯曲を読んだことがあるだろうか。

戯曲は普通の小説とは違い、登場人物たちの台詞や、ト書きと呼ばれる登場人物の行動や場所、時間を説明したもので、物語が展開されていく。

人間の生きた会話が、どんどんと積み重なっていくのを読んでいると、登場人物の声や仕草などに空想の余地が広がる。

句読点の一つひとつに、息遣いを感じることや、自分にしか想像できない舞台上を、頭の中で作り出すことは、戯曲ならではの魅力だ。

仕事として戯曲や台本に向き合うときは、作者が思うこの空想の世界について、細かく理解していきたいのだけれど、詰めすぎるとややこしくなることもあるから、塩梅が難しい。

私が戯曲を読む場所は図書館が多くて、少し大きめのところに行けば、大抵は国内海外問わずに様々な戯曲を読むことができる。

膨大な蔵書の中から気まぐれに一冊の戯曲を選ぶことはとても楽しくて、大抵は何も調べずに運と勘で決める。

図書館で自由に読む戯曲は、子供の頃に読んでいた『ミッケ!』(小学館)の絵本のように、伏線や関係性について、勝手に発見して、私なりの解釈を楽しむことができる。

今回は、私が最近出会った2つの戯曲を、皆様に紹介したい。

1つ目はピエトロ・アレティーノの『ラジオナメンティー女のおしゃべりー』(※1)。

七夕生まれ蟹座AB型一人っ子好きな四字熟語は「不労所得」。

高校で出会った友人Cは、私にとってずっとおもしれー女であり、今でも頻繁に会っては近況報告をしあっている。

お互いに最近起こった出来事を面白おかしく話すことは本当に楽しくて、笑いのツボを理解しあった私たちは、毎回涙が出るまで爆笑することができる。

それがたとえ重い話であっても、馬鹿げた喩えに、さらに馬鹿げた相槌を重ねれば可笑しくて、笑い飛ばしながら、ここまでやってきた。

私たちの会話には重大な意味なんてほぼなくて、そこにあるのは共感と冗談と深刻な現実を跳ね除ける生命力の主張なのだ。

『ラジオナメンティ』は、そんな女のおしゃべりが豊かに描かれていて、その雰囲気は現代にも通ずるものがある。

舞台は1500年のローマまで遡る。

主人公の中年女のナンナには年頃の娘ビッパが居り、修道女にするか、結婚させるか、娼婦にするかを決めかねていた。実は、ナンナにはその3つを経験した過去があったのだ。

女友達のアントニアに相談し、「修道女」「人妻」「娼婦」の体験談をそれぞれ3日に分けて語ることとなった。そうして、最後にはビッパの未来が決まる。

3つの壮絶な過去を語るナンナの語彙力や比喩が凄まじく、アントニアの相槌もウィットに富んでいて、読んでいるとあっという間に、私まで女子会の気持ちになってくる。

この作品の作者はピエトロ・アレティーノという男性で、母親は何人もの芸術家のモデルになった遊女だったという。

しかし孤児院で育ったアレティーノは友人がおらず、教育もほとんど受けておらず、13歳で母親から金を盗み、一人暮らしを始めたそうだ。

それからの生活は、教皇の召使いとなったり、托鉢僧になりすましたり、放浪も多く、波乱万丈だった。

やっと文学者になった後も、著名人を誹謗中傷したり、大げさに褒めたりした詩を発表して富を築いた。

そうして何度も殺されかけたりしながら、最後には「笑いすぎて死んだ」との逸話が残るほど人生を謳歌したアレティーノ。

官能小説としての側面も持ち合わせているこの『ラジオナメンティ』は、公開当初、その内容の下品さから酷評を受けたそうだが、そこには如何しようもない現実の不幸を凌駕するほどの逞しさと強かさ、そしてユーモアが垣間見える。

1500年のローマはかなり大変そうだ。

2023年の東京と変わらず、嫌な奴も理不尽も嘘も狂気も暴力も雨のように降ってくる。そしてその雨粒に濡れて落ち込む暇はないのだ。

しかし、笑えてしまえば、痛い目や苦しい目に会うのだって悪くない。と、私は思う。

どれだけ時代が変わろうとも、女のおしゃべりは尽きず、そこには、現実を乗り越えるための「大切な無駄」の役割があるのだ。