貴重な体験をできた映画『バトルロワイヤル』

――キャリアについてお伺いします。11歳でこのお仕事を始めたそうですが、お芝居は家族から勧められたんですか?

山口 自分の意思です。幼稚園の時に『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(TBS系)というバラエティが大好きで、テレビに出ている人たちは面白いなと思ったんです。当時から目立ちたがりだったので、「テレビに出たい!」って言ってたんですけど、親は冗談だと思って流していて。でも僕がずっと言い続けていたみたいで、「これは入れないと収まりがつかないな」という感じで、「劇団東俳」という児童劇団に入れてもらって活動が始まりました。最初に呼ばれたのが『ウルトラマンになりたかった男』(1993/TBS系)というドラマのエキストラでした。ウルトラマンの映画を観に来た長蛇の列の、ご家族の中の一人だったんですけど、カメラに向かってピースをしていたみたいで。「あのピースをやめさせろ」と言われわれました(笑)。

――まだエキストラを仕事として認識できていなかったんですね(笑)。

山口 そうですね。ただ小学生の頃から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』などの映画が大好きで、よく映画館にも行ってたんですけど、ある時に「自分はマイケル・J・フォックスと同じ職業をしてるんだ」と改めて気づいて。そのうち役ももらえるようになって、いろいろな役を演じたり、先輩たちの演技や役者としての佇まいを見てかっこいいなと思ったりしているうちに、どんどんお芝居の魅力にハマっていきました。

――その当時、印象に残っている作品は何ですか?

山口 小学6年生から中学1年生の時に、『スタンド・バイ・ミー』(1994)という舞台に出て、初めてサンシャイン劇場や京都の劇場で公演した時に、一つの役に打ち込んで、みんなと一緒に作品を作り上げることが、すごく楽しかったんです。もともと映画の『スタンド・バイ・ミー』も大好きでしたしね。そう考えると、当時から映画が原作の舞台に縁がありますね(笑)。

――映像作品ではどうですか?

山口 映画『バトルロワイヤル』(2000)の現場を経験できたのは本当に良かったです。実質的に深作欣二監督の遺作ですし、無我夢中で演じました。オーディションに1年かけて、さらに一か月ぐらいかけてリハーサルをして、ようやくクランクインで。深作監督だからこその贅沢な現場で、厳しい方でしたけど、どんな時にも愛があるので、みんな迷うことなくついていきました。この時に共演したメンバーは特別な存在で、いまだに会って飲むこともあります。

――舞台のお仕事に力を入れようと思ったきっかけはあったんですか?

山口 高校生になって、『あぶない放課後』(1999/テレビ朝日系)というドラマにレギュラーで出させていただいたんですが、先生役が「劇団カクスコ」の井之上隆志さんだったんです。その時に「なんて面白い人がいるんだろう」と衝撃を受けて、セリフとセリフの行間にこんなに面白いことが詰まっているんだとビックリしたんです。井之上さんは毎回やることも違うし、毎回面白い。職員室のシーンも、自分の出番じゃないのに見学をさせてもらって。それをきっかけにカクスコのお手伝いをするようになりました。お芝居って、どうやったら上手くなるんだろう。そもそも上手いって何なんだろうとか、いろいろ悩んで。それは今も悩んでいますけど、舞台の経験がある俳優さんって達者な人たちが多くて、憧れている俳優さんは舞台出身の方が多かったので。そこから舞台のほうにシフトチェンジして、二十代はめちゃめちゃ舞台に出ていました。

――当時、お手伝いをきっかけに、舞台にも出演するというのは普通だったんですか?

山口 僕の場合は、当時のカクスコのマネージャーさんが「うちの井之上が好きだったら手伝わない?」と声をかけてくれて、ちょっとしたお手伝いをした合間に舞台を観させていただいて、それで井之上さん出演の別の公演に、出演者として呼んでいただくようになりました。カクスコ以外にも先輩がいる劇団の受付のお手伝いなどをして、その代わりに舞台を観させていただいて、終わったら基本的に飲み会があったので、そこで朝まで先輩たちと話して交流するみたいな。そういう機会って、映像のお仕事ではなかなかないんです。そのうち、「うちの舞台にも出ないか」と声をかけていただいて、どんどん人と人が繋がっていくみたいな感じでした。

――将来、役者でやっていこうというのは早い段階で決めていたんですか?

山口 中学生の時点で、お芝居が楽し過ぎるので、このままやりたいってずっと思っていました。他の進路を考えたことはなかったですね。学校の行事や夏休みなどに撮影が入ったら、迷わず仕事を優先しましたしね。

――大学にも通われていたんですよね。

山口 僕が高校2年生の時に亡くなった父親が、「大学は出てほしい」と言っていたので、AO推薦で帝京大学の日本アジア言語文化学科に進学しました。大学でもたくさんの出会いがあって、行って良かったですね。

――サークルなどには入っていましたか?

山口 友達と写真部に入ったんですけど、あんまり写真は撮らなくて、そこで出会った人たちと民族楽器サークルみたいなものを立ち上げました。友達がディジュリドゥとかジャンベを趣味でやっていたので、大学の構内にゴザを敷いて演奏して、僕はボーカルで奇声を上げていました(笑)。そしたら何人か入りたいって友達も出てきて、よく一緒に遊んでいましたね。その仲間の一人は、後にジャンベの演奏者になって、今は和歌山で暮らしています。