上手くいくかどうかはキャストとスタッフが集まった時点で決まっている

中屋 『点滅する女』のキャスティングはどのように決まったのでしょうか。

山西 キャスティングやスタッフィングは力を入れている部分で、初期演出だと思っています。演劇でも映像でも、お客さんが呼べるのかとか、いろんな都合で割と決まっちゃうと思うんですけど、個人的に上手くいくかどうかは8割方、キャストとスタッフが集まった時点で決まっている気がして。ひと月稽古しても、そんなに上手くはならないというか、根本的な能力は変わらない。気持ちや目指す方向を合わせることはできると思うんですけど、基礎技術を伝えるみたいなことになってくると、演出というよりは演技指導になってしまいます。そういう過程がなくてもできる人をキャスティングしたいので、基本的にお会いしたことがある人、ワークショップをやったときに集まっていただいた人、別作品で一緒にやったことがある人、生のお芝居をちゃんと見たことがある人をキャスティングするようにしています。演劇のときは特にそうですね。キャスティングが決まるまで本を書かいないので。

中屋 え!?そうなんですか?

山西 プロットだけ書いて、「本はまだなんですけど、出てくれますか」と。キャスティングが決まった時点で、集まった方に当て書きで、そのキャラクターに寄せた喋り方などを考えていくんです。たとえば返事一つでも、「はい」って言ったほうがいいのか、「うん」って言ったほうがいいのか、人によって似合う似合わないがものすごくあるんです。

中屋 どういうスケジュール感で本を書かれるんですか?

山西 基本的には、キャスティングの前にお会いして、決まった後に脚本がない状態でワークショップみたいなことを2,3日やって、そこから1、2か月かけて脚本が上がって、稽古が始まるという流れでいつもやっています。今回もそうでしたね。

中屋 あまり聞いたことがないです。

山西 演劇だと、そういうやり方をやっている方はたまにいますけどね。

中屋 当て書きをして、いざ芝居をつけてやってもらうとなって、ギャップとかは生まれますか?

山西 ほぼ生まれないです。この人に似合う服を考えるみたいな感じに似ているというか。この役者さんなら、このセリフ、この役回りだと絶対に良く見えるだろうな、というのを当てがっていくんです。もちろん上手くいかないときがない訳じゃないんですが、『点滅する女』はどの方も、とても似合った服を着ているなという印象です。

中屋 『点滅する女』の台本を読ませていただいたんですが、とても対話が面白くて。インスピレーションの源がどこにあるのか気になりました。

山西 僕自体がすごく会話が好きで、今日もここに来て、「思ったよりも僕はしゃべるな」って思いながら今しゃべってるんですけど(笑)。会話が好きだからこそ、会話の記憶の断片から持ってくることもありますし、当て書きだから、「この人こんなこと言いそう」「こんなことを言ったら面白そう」とか考えます。そういうときは、割と表面的ではない部分にフォーカスをします。たとえば、いつもニコニコしていて、優しい人を見ると、家ではいつも怒っているんやろうなと思ったりして。中屋さんも先ほど初めてお会いしたばかりですが、すごく優しそうな方だからこそ、逆に怒ると怖そうやなと思いました(笑)。

中屋 意地悪な視点ですね(笑)。

山西 でも、そういうものだと思うんです。社会的に出している表のキャラクターと、その人の本質って乖離があって、こっち(本質)側に触れるようなキャラクターを描きたいというのがあるんですよね。表のキャラクターだけで描くと、やんちゃそうな人がやんちゃなだけで終わってしまう。やんちゃそうな人が繊細なセリフを言ったほうが美しく見えるし、強がってかっこよくしてる人は、情けない姿のほうが美しく見えるんじゃないかなというのがあるんですよね。より本物に感じられるというか。実際、人って必ず両面があるものだと思うので。

中屋 『点滅する女』はクスって笑うシーンが多くて。私自身、コメディに興味があるんですけど、ユーモアの部分はどのように役者さんに指導するのでしょうか。

山西 やっぱり、その人が演じたら面白くなるように書いているというのが前提としてあるので、そのまま演じてもらえばいいというか。そこから出力とかテンポとか間とか、細かい部分を調整していきます。僕は間にうるさいんですけど、それはお笑いをやっていたところからきていると思います。

中屋 ストーリーや登場人物のドラマを追いながら、観客を感動させるというのが舞台で、そうするとリアルな感情表現が求められると思うんです。でもコントとか笑いを主軸に置いた作品は、テンポとか身体表現みたいなものを重要視している印象があります。この二つのユーモアのアプローチというか、役割を知りたくて。

山西 人によって全然違うかもしれないんですけど、僕はある程度、同じなんじゃないかっていう気がしていて。たとえば人間が感動する間ってあると思うんです。お芝居を見ていて思うのは、たとえば文脈で「この人は怒ってる」というのが何となく分かっていて、その人がブツブツ言ってて、どこかで急に沸点が高くなって、間があって、「ほっといてって言ってるじゃん」と言う。それで怒ってるってすごく伝わる。これって良いテンポを刻んで、笑いが起こるときと感覚的に似ていて。笑いという分かりやすい反応は起こらないですけど、良いお芝居を見てるときって、観客が前のめりになってる瞬間が全員一緒になるというか。同一の反応を観客から引き起こすという意味では、どちらにせよテンポとか間は、お芝居にとって中枢的なものを担っているんじゃないかなと思います。

中屋 ベクトルが違うだけで共通するものがあるんですね。

山西 全く同じではないですけど、原理は一緒じゃないですかね。