ケガでスポーツ推薦の夢が絶たれて芸能界の世界に

――キャリアについてお伺いします。中学高校と陸上部に打ち込んでいたそうですね。

須藤 もともと幼稚園の頃から足が速くて、スポーツもスイミング、剣道、バスケといろいろやってきました。中学生になるタイミングで、部活は何をやろうと考えたときに、団体競技は自分に非があってもなくても、全体の責任になるじゃないですか。だから全てが自己責任で、努力したこともサボったことも全て自分に返ってくる個人競技のほうが、自分には向いているのなと思って陸上を選びました。あと私が小学校高学年のときは、ちょうど(フローレンス・デロレス・グリフィス=)ジョイナー選手の全盛期で、他の選手が必死に走る中、残り10メートルぐらいからバンザイをしてゴールする姿がかっこよくて華やかだったんです。彼女が三冠を達成したソウルオリンピックを夢中で観ていたので、その影響もあります。

――高校時代は200メートル走でインターハイに出場して準決勝まで進出したそうですね。相当、練習も過酷だったのではないでしょうか。

須藤 高校時代は年間に3日ぐらいしか休みがなくて、試合の翌日も、軽くジョギングと筋トレとマッサージをしてというクールダウンの日で休みではなかったです。夏は炎天下の中で走って、過呼吸になって倒れたこともあります。

――高校卒業後も陸上を続けようとは思わなかったんですか?

須藤 大学でも続けようと思っていたんですけど、高校3年生のインターハイ直前に大怪我をしてしまいまして、全治2ヶ月という診断だったんです。今まで通り陸上を続けられるか分からない、陸上をやめなきゃいけないかもと。ずっと陸上だけで勝負してきたので、そのほかに私には何にもなかったんだということにハッと気づきました。そんなときに、姉がアミューズのオーディションを勧めてくれたんです。

――それまで芸能に興味はあったんですか。

須藤 全くなかったです。映画やドラマを観るのは好きでしたけど、だからこそ自分とは別世界だと思っていました。ただ、姉が福山雅治さんのファンクラブの会員で、同じ事務所だから、もしかしたらオーディション会場に福山さんが審査員として来るかもしれないという姉の魂胆もあって(笑)。

――芸能に興味がなかったからこそ、踏み出せたところもありますか。

須藤 あるかもしれないですね。本当に陸上しかやってこなかったので、何も知らなかったですから。あと私の参加したオーディションは、一発合格とかではなくて、半年間レッスンをさせてくれるというものだったんです。もともと練習好きですし、新たな目標ができて、やれないことをやれるようになる過程が楽しかったからこそ続けられたところもあります。

――レッスンはお芝居中心だったんですか?

須藤 そうです。レッスンを受けながら、並行してCMやドラマのオーディションも受けさせてもらって、けっこうCMに使っていただく機会が多かったんです。それで半年後、正式に所属させてもらうことになりました。

――家族は須藤さんが芸能活動をやることに賛成だったんですか。

須藤 母はやりたいことをやりなさいというタイプだったんですけど、父は親族と会社をやっていて、姉も父のお手伝いをしていたので、ゆくゆくは私もその会社に入れようと考えていたんです。だから3年間だけやってみなさいと。事務所の方が挨拶に来たときも、「売れずにダラダラやるよりも、ちゃんと区切りをつけてください。才能がなかったら、すぐに切ってください」と言ってました。

――その3年間で結果を出した訳ですね。

須藤 19歳で事務所に入って、21歳で先ほどお話に出た『天うらら』が決まったので、本当にギリギリでした。しかも当時の朝ドラヒロインの年齢制限でも上限ギリギリで、最後の挑戦という気持ちでオーディションを受けたら合格して、それで父も認めてくれました。

――朝ドラのヒロインを務めるというプレッシャーはいかがでしたか。

須藤 やっているときよりも、ドラマが終わった後のほうがプレッシャーは大きかったです。というのも朝ドラのときは、私の経験が浅いのもあって、皆さん細かくアドバイスをしてくださったので、私は目の前に与えられたものを一生懸命やっていればよくて、それが当たり前だと思っていたんです。でも朝ドラが終わって民放のドラマに出たときに、今度はプロとして扱ってくださるので、誰も何も言ってくれなくて、これからは全部自分で考えてやらなきゃいけないんだと。そういう状況に放り出されて、改めて仕事の大変さとプレッシャーを感じました。