『egg』の復活でギャルに対する世の中のイメージが変わった

――ギャルを活かした仕事をしようと思ったきっかけは何だったのでしょうか。

赤荻 そもそも一生働きたくないと思っていたんですけど(笑)、ある事故を起こして、30、40万円程度の修理代がかかることになったんです。遊ぶお金も欲しかったので、これはバイトだけじゃ無理だなと思って、じゃあ社会人になるかと働くことにしたんです。それでギャルサーの先輩の伝手で広告代理店に就職させていただいたんですが、その会社がお仕事でギャルと関わることが多かったので、たまたまですね。

――広告代理店では具体的にどんな仕事をしていたのでしょうか。

赤荻 たとえば、みちょぱちゃんや藤田ニコルちゃんがプロデュースするつけまつげを一緒に作ったり、湘南美容外科さんと一緒にオーディションを開催するお仕事をしたりですね。

――オーディションというのはどういうものだったのでしょうか。

赤荻 「整形シンデレラオーディション」というオーディションの運営をやっていました。1回目と2回目は国内だけでやっていたんですけど、湘南美容外科さんは海外にもクリニックがあるということで、3回目はベトナム人女の子の候補者を5人入れて、手術は日本でやることになったんです。それで約2ヶ月、ベトナム人の女の子と同じマンションのフロアで共同生活をしました。もともと私は誰とでも寛容に接するタイプではあったんですけど、ベトナム人の子たちのサービス精神や、人を大事にする気持ちといった国民性を目の当たりにして、まだまだ狭い世界しか知らなかったんだなと思い知らされました。それをきっかけに海外でいろいろやりたいと思うようになりました。

――21歳の若さで『egg』の編集長に就任した経緯を教えてください。

赤荻 私のいた会社が『egg』を出している出版社と仲が良くて、「Webで復活できそうじゃない?」という話があったんです。その話を聞いたときに、もともと私は『egg』が大好きだし、お仕事を始めてから「渋谷のカルチャーを活かしてコンテンツを作りたい」という夢があったので、「ぜひやらせてください!」と立候補して、就任しました。

――それまで編集経験はなかったんですよね。

赤荻 なかったです。ただ最初はYouTubeとSNSで毎日情報を発信して、盛り上がったら雑誌を復刊しようという感じだったんです。だったら出版社の方がトップでやるよりも、私のほうがSNSに詳しいし、YouTubeも身近なものだったから、やれると思ったんですよね。社会人になってからの伝手もあって、雑誌を出すと決まったときに、広告も入れてもらえました。そう考えると、広告代理店で下積みをして、名刺の渡し方からパソコンの使い方まで学ばせていただいてから、編集長になれたので、そこまで恥ずかしい思いをしなかったですね。

――『egg』の編集長になるにあたって、どんなことを意識しましたか。

赤荻 大好きな『egg』ですから、その名前をレベルアップさせて、もっと盛り上がるように頑張らなきゃいけない。ただ全盛期のときの『egg』と今のギャルを比べて、マインドは一緒ですけど、見た目やファッションなどは目指すところが全然違うと思ったんです。だから全盛期とは違う部分があっても、今のギャルの当たり前が認められるように個性を出してあげたいなと思いました。

――編集長になって新しい発見はありましたか。

赤荻 当時、「ギャルは絶滅した」と言われていたんですけど、SNSとかで有名じゃないだけで、全然いるし、絶滅してないですよということで編集長になりたいと手を挙げたんです。ただ実際に『egg』を復活させてみると、予想以上にギャルが全国にいたし、「ギャルになりたいけどなり方が分からない」「今の環境だと地元では浮いちゃいます」みたいな隠れギャルがたくさんいたので、うれしさと驚きがありました。

――約4年に渡って編集長を務めて、ギャルの状況は変化しましたか?

赤荻 正直、『egg』を復活させた当初のギャルのイメージは底辺といってもよい状況だったんですけど、今はギャルと縁のなかった年上の方からも「ギャルって良い子が多いよね」と言われることが多くて、ギャルに対する世の中のイメージが変わりました。もともとギャルは上下関係に厳しくて、体育会系の子が多いし、厳しい環境で育った子も多いので、ちゃんとしているんですよね。

――なぜ編集長を卒業したんですか。

赤荻 『egg』の復活に携わってくれたモデルの子たちが辞める時期でもありましたし、私も25歳になるタイミングだったので、若い編集長に明け渡して、古くならないようにしたいなと思ってバトンタッチしました。『egg』には常に若くてフレッシュな媒体でいてほしいですからね。