覗く好奇心について
美しい建築や絵画、風景などを見つけることが好きで、休みの日には一人であてもなく散歩をすることが趣味だ。
最近は北鎌倉がお気に入りで、特に明月院はいつ来ても惚れ惚れしてしまう、私のお気に入りの寺院だ。
手入れの行き届いた庭園では、木々をリスが揺らし去っていくのが見え、寺院の中にあるカフェで抹茶を頂きながら、本を読む瞬間はとても贅沢な気持ちになる。
そして、この寺院の名物である「悟りの窓」は壁の一面がぽっかりと丸い穴が空いていて、四季折々の豊かな景色がまるで切り取られたかのように覗く。
初めてこの窓を見たとき、私にはこれが夢と現実の狭間を体現しているように思われて、心奪われた。
景色が局所的に切り取られているからこそ、注視してみることで自然が更に美しく見えるのだろうか。
ここから見えるハナショウブは、私の春の楽しみだ。
反対に、目を背けるべきとされるものを見つけた時も、私にとってそれはまた一つの美しさだと感じる。
「美形の分類について、鼻血を出した姿で滑稽さよりも美しさが優っていたら美形である」というのは、私が昔聞いたことのある一説である。
長い歴史の中では、美しさの概念というものは度々移り変わるものであり、特に多様性が広がる現代では、人間の美醜というものはそれぞれの価値基準によって決定されるもので、そこに明確な基準はないはずだ。しかし中でも私は、この仮説があてはまる風貌に美しさを感じてしまう。
人が血を流す姿を好むなんて不道徳だと思われるかもしれないが、是非一度、自分が最も美しいと思う人間の顔を頭に思い浮かべてみてほしい。
その鼻の暗い穴から、すっと赤い血が鮮烈のように小さく線を引く。その時、目はどんな色や光の反射を持っているだろうか。痛々しいというよりも、我々の怖いもの見たさを刺激する、耽美な美しさを帯びてはいないだろうか。
美しい人を目にした時にふと空想してしまうこの説は、私が心に秘めていた密かな愉みであり、止めようと思っても止められないのだ。
江戸川乱歩の『屋根裏の散歩者』では、仕事も趣味もなく何にも楽しみを感じられない男が、天井裏から住人の生活を覗き見することに楽しみを覚えてしまう。
この男の趣味趣向も世間一般では「不道徳」とされるのだろうけど、私には、気持ちがわからなくもない。
何かをこっそりと覗くとき、そこには不道徳的で秘めた高揚感があり、覗くという行為は、日常から味わえる背徳感を持った遊びのような側面があるのではないだろうか。
最近では、女子高生などの会話を盗み聞いてその面白い内容をネットに投稿することが流行り、そしてそれは大方「いいね」欲しさの嘘であるという見方をされるらしい。
他人の生の面白い会話を覗ける機会というのは、割と貴重なものなのかもしれない。
近年のコロナ渦において、誰かと時間を過ごすことはとても贅沢なものとなり、出会いや交友を深める機会は極端に減った。そうした毎日の中では、日常が平坦化し目覚めるような感動に出会えることは少ない。
しかし演劇は、人間の持つそういった「覗く好奇心」を満たす芸術として存在し、観客を自然と高められた感情に出会わせることができるのではないかと思う。
舞台上の仮想現実を覗くとき、私たち観客は自分の身体を手放して役者の身体にある種の同一化を感じることがある。発する声に共振し、役者の身体をバーチャルのように借りている感覚があるのだ。
そうした経験により、日常で消化できなかった感情や、ストレスを発散させることは、私にとってある種のセラピーにも感じられる。