「みんなのためなら頑張れる」を価値基準に行動していた学生時代

――キャリアについてお伺いしたいんですが、小学生の頃から芸能活動を行っていたそうですね。

寿美菜子(以下、寿) 最初は子役からでした。きっかけは小学校4年生のときに、モーニング娘。さんが大ブームで、私も歌って踊れる人になりたかったんです。でも、どうやってオーディションを受けたらいいの分からずにいたら、小学4年生のときに、母が地元・神戸の新聞に載っていたCMのオーディションを見つけてくれて、受けたら合格しました。関西ローカルだったんですけど出演したCMが流れて。その翌年には雑誌『りぼん』の読者モデルの最終オーディションに残ったりもして、親と相談して、もうちょっと本格的にやってみようと関西の養成所に通い始めました。そこで歌とお芝居のレッスンを受けていくうちにオーディションに受かって映画にに出させてもらってというのが子役の始まりでした。

――もともと人前で何かするのは好きだったんですか。

寿 幼少期は人見知りだったので、人前に出て目立ちたいというよりは、みんなで一緒に頑張りたいという気持のほうが強かったです。だから学校行事が大好きで、中学・高校では文化祭、体育祭などに積極的に参加して、そういうときはリーダーシップも発揮していました。ソーラン節を踊ったときはセンターも務めましたし(笑)。ただ得意不得意があって、基本的に運動は何でもできるタイプではあったんですけど、図画工作みたいなもの作りは苦手だったので、誰かに協力してもらったりして。そうやってみんなで何かするというのは一貫して好きですし、気づいたら「みんなのためなら頑張れる」っていうのが価値基準になっていたみたいで。だから中学生時代、お芝居をやっていく中で、「これは誰のために何を頑張ればいいんだろう」と疑問に思ったところもありました。

――当時は、あまりお芝居を楽しめていなかったんですか?

寿 そうでしたね。お芝居って何もないところから始まるので、今でも0を1にする段階が自分にとっては難易度が高くて、ずっと難解なものです。当時は歌うことのほうがしっくりくるという感覚が自分の中にあって、母がピアノの先生だったので、物心ついたときから音楽が身近にあったので、音楽に身を委ねることに違和感はありませんでした。

――声優のお仕事をするようになったのは、どういう経緯があったんですか。

寿 映像作品のお仕事でお世話になっていた方から、東京の事務所のオーディションを受けてみませんかと声をかけていただいて。それが「第1回 ミュージックレイン スーパー声優オーディション」だったんです。主催が声優事務所というのも知らずに受けました。そのときも自分がというよりは、お声がけいただいた方のために頑張ろうという気持ちでしたね。審査に向けてセリフも全部覚えて、マイクを使わずに演じようとしたら、「マイクの前でやってください」と言われて。これって子役出身あるあるなのかもですが、マイクとの距離が分からないんです(笑)。ただ、ありがたいことにオーディションで見出していただいて、中学校2年生ときに、その事務所に入ることになって。声優だけにとどまらずマルチに活躍できる人材を見つけるのがコンセプトのオーディションだったので、そこは自分に合っているなと思いました。

――アニメの知識はどうだったんですか?

寿 そこまで詳しくなかったので、自分の中で声優としての目標を決めないと、がむしゃらには頑張れないなと思いました。それで目標を考えたときに、私は3歳のときに阪神・淡路大震災(1995年1月17日)に遭ったんですけど、小さかったので記憶が全然なくて。ただ小学生になると、毎年その時期に震災の勉強をするんです。その一つとして、『地球が動いた日』(1997)という阪神・淡路大震災を題材にしたアニメ映画を観て、強く記憶に残っていました。実際に体験しているけど記憶がない世代でも、アニメだと震災の怖さが伝わる。まだ小学生だったので、ニュースだと伝わりにくかったけど、アニメだと共感できたのを思い出して。いろいろなテーマを、子供たちに届けられるアニメに携われる人になりたいというのが最初の目標になって、声の仕事を頑張ろうと思いました。